六月、皐月が咲く頃に、今年もウシガエルの牛五郎が池で鳴きだした。我々夫婦が勝手に「牛五郎」と呼んでいるのだが、まだ姿は見たことはない。以前はよく考えもせず、どこかから来るのだと思い込んでいたが、どうも彼らは池の底の泥土に潜り込んで冬眠し、今頃目覚めて鳴きだすようだ。寿命は十五年ちかいものもいて、その太い鳴き声は客を驚かす。居間や書院までどっぷりウシガエル世界になってしまうのである。
 カエルはいったいなにゆえ鳴くのか、と考えると、すぐに求愛行動かと合点する。そして去年は終始孤独だった牛五郎だが、今年はそういえば数日前からもう一匹が鳴きだした。少し音程が高いし、きっと雌だろうと、牛五郎に代わって嬉しがる。空しく鳴いていた去年と違い、今年は鳴き甲斐もあろうというものだ。
 さて神様の悪戯なのか、同じ季節にヘビも冬眠から醒めて動きだす。ヘビとカエルといえば、カエルが一方的に捕食される関係である。以前大きなヒキガエルが巨大なヤマカカシに左足を咥えられ、じわじわとヘビの腹中に全身呑み込まれていくのを見た。キーキーとヒキガエルは鳴くのだが、ヘビは問答無用、一切関知せず消化してしまった。
 そうかと思えば強いはずのヘビが池のタニシにちょっかいをだし、逆に殻口に首を突っ込んだまま蓋を閉められて死んだのも目にした。六月のタニシは食べると一番旨いと言われるが、ヘビもグルメが過ぎて失態を演じたのだろうか。
 こうして自然界を眺めてみると、まるで戦時中のようなありさまである。平和も長閑さも、あったものではない。しかしそう思いつつもう一度見回してみるが、やはり自然は閑かだし平和に見えるのはなぜか…。
 要するにこれは、犬同士の喧嘩、ネコ同士の喧嘩のように、時の運などで勝敗が左右されることがない、という諦念の静けさではないか。植物連鎖の順序は絶対だから、出逢った瞬間に結果はほぼ決まってしまう。だから静かなのである。
 おおっと、どこからかヒラリとアオサギが飛んできた、池にアオサギとはじつに風情のある景色だが、思えば彼らも池の魚を食べに来たのである。ふと、アオサギがアメリカで、ヘビが中国か、伏兵のタニシはさしずめベトコンか、などと思ってみるが、これはおそらく間違った比喩だ。所詮、我々人間はカエル同士、ヘビ同士に喩えられなくてはならない。
 牛五郎が再び鳴きだし、雌も一拍おいて答える。牛五郎に今のところ恋敵はいないが、もしも雄が三匹以上になったとしても、彼らはおそらく鳴き競い、諦めるだけだ。恋のためでもなく武器を持って殺しあうヒトは、まだカエルほど進歩していないらしい。


  
 
福島民報 2015年 6月28日 日曜論壇