本堂の改修工事がほぼ終わり、あとは漆塗りなど一部を残すだけになった。山形の加藤工匠の棟梁はか三人の大工さん、銅屋根を葺いてくれた小野工業や鳶職の面々、左官屋さん、建具屋さんに畳屋さん、そして電機屋さんや洗い屋さんにも感謝しきれない、素晴らしい出来映えである。
 なにより感動的なのは、寛政十二(一八〇〇)年に上棟した建物がそのまま活かせたことである。柱も梁も天井も浜縁も、当時の木を洗うだけでそのままにした。漆喰の壁は、今はこんなに強いものは作れないということで、表面を塗り替えただけだ。
 二度の火災に遭い、しかも一度目に燃えたあとは四年後の類焼だから、おそらくは御寄付もお願いできず、新たに本堂を建てるまでに十五年かかった。お寺もなけなしの資金をこつこつ貯め、当時の地元の大工さんたちに精魂を傾けて建ててもらったのだろう。その大部分が、そのまま活かせたのである。
 今回の仕事では、大工さんたちの「石場建て」の見事さと、「洗い屋」さんの仕事ぶりに最も感銘を受けたので紹介したい。
 洗いは東京の美荘工業という会社の吉羽さんという方がしてくれたのだが、町内の檀家さんの宿に泊まり、毎朝七時半すぎから夕方五時すぎまで、とにかくひたすら建物を洗ってくれた。柱や鴨居はもちろん、天井も浜縁も、丹念に根気よく、刷毛や布を使い、大量の水で洗っていく。お掃除とか雑巾がけのイメージをもたれるとしたら、それは全く違う。木部を存分に濡らし、幾種類もの刷毛で汚れを浮き出させ、それを洗い落していく、と言えば近いだろうか。
 しかもほとんどが独りの作業だったから、ほぼ一日中無言である。宿の女将の話では、毎朝、前日と同じように布団類が畳まれ、しかもゴミ一つ落ちてないから、本当にその部屋で寝ているのか不安になるくらいだったという。今時そういう若者もいるのである。
 さてもう一つの感銘を受けた「石場建て」とは。礎石の上に直接束を建てる工法だが、石の凸凹を束の底に写し取り、まるで仏像でも彫りだすように鑿で削り、一本ずつ石の凸凹に合わせていくのである。技術もさることながら、大工さんたちの根気には本当に頭が下がった。
 正直なところ、東日本大震災のときも、全面的に石場建ての本堂が最も安泰だった。位牌段が下の方から倒れた、ということは、礎石と束との間で揺れの多くが吸収され、上へ行くほど揺れも小さかったのだろう。漆喰の剥落も一箇所で済んだ。
 この優れた伝統工法が地震に強いのは今や明らかだが、残念ながら現在の建築基準法では新築にはすんなり認められない。もしも関係各位がこれを読まれていたら、是非とも早急に同法の改正をご検討いただきたい。あらかた改修成った本堂に感銘しつつ、一つ要望まで。
  
 
福島民報 2015年 8月30日 日曜論壇