このところ、刑事犯罪を犯した人々の社会復帰が難しい世の中になりつつある。むろん犯人を取り巻く周囲の人々にも、差別を含んだ一段と厳しい眼差しが向けられる。そこでは個人の尊厳などよりも、防犯意識のほうが優先され、今や街のあちこちに監視カメラが設置される世の中だ。いったい、誰が誰を、これほど監視しているのだろう。 そんな中、この映画では標題の「手紙」が、温かい人間の体温を運んでくれる。皮肉なことだが、刑務所の剛志ほどそんな手紙を待ちこがれる存在はいないだろう。 しかし無期服役囚である兄からの手紙を受け取る弟、直貴の思いは、そう簡単には割り切れない。兄にとっては唯一の温かい通路でも、弟にとっては職場から追い出され、住まいも移さざるを得ない、その元凶に、兄との繋がりがあると感じられてくるのだ。 切れない絆はやがて鎖に変わる。しかし切れない鎖を切ろうともがく直貴を、登場しない母親のように見つめ続ける由美子の存在……。それは今で云うセレブな女性と好意を寄せあう直貴と併行して点描の如く描かれるのだが、この二人の女性がけっして単純には図式化できないところが東野物語の大きな魅力でもある。それでも物語が、底抜けに腰の据わった由美子の愛情のほうへ運ばれるのは、作者の強い意志ということだろう。 むろん作者も監督も、無粋なコンセプトを彼女に語らせたりはしない。直貴が勤めた大手の電気製品量販店の会長に、由美子は切々と直貴を取り巻く境遇と本人の心根とを「手紙」に書きつづり、それに「心を打たれた」という会長が、兄の噂で左遷されたあとの直貴に語るのである。 差別は人間の防衛本能からすれば、当然のこと。差別のない場所を探すんじゃなく、君は「ここ」で生きていくんだ……。そうして生きていくための信頼関係を、君はすでに一つ持ってるじゃないかと、会長は持参した由美子の手紙を示すのである。 おそらくはこれが、原作者である東野圭吾氏の大きな主張なのだろう。映画はその後、これを主調にしてフーガを奏でる。 「手紙」に込めた作家の思いは甚大で、作中には他にもさまざまな手紙が描かれる。筆跡が判らないようパソコンで打った身代わりの手紙、また獄中から被害者の遺族に向けて書き続けられる写経の如き手紙、そして極めつけは、それらの手紙とは対照的に描かれる無記名のブログだろう。明らかにブログは、無責任に直貴を殺人者の弟としてあげつらう世間の集合的悪意を端的に示す。その無機的な画面を憶いだすと、私は今でも怖いと思う。犯罪を犯した剛志のあくまでも誠実な手紙と、いわゆる一般市民の悪意とが頭の中でくっきり並置され、私の呼吸は奇妙によじれて束の間止まった。 六年にわたる手紙往来の末に描かれるラストは、思いを深め合った兄弟どうしの奔流の如き直接対面である。ここに「お笑い」を持ち込もうとした脚本家の感性にも、私は脱帽したい。鮮やかに基本主調を浸透させた最終章は、映像的にも圧巻である。 しかしこの映画の底には、おそらくそこでカタルシスと共に解消してはいけないものも重く沈殿している。我々は今、剛志が刑務所で食べたかき氷の旨さを知ることもなく飽食し、そしていつのまにか刑務所の塀よりも高い塀に囲まれて生きているのではないだろうか。 その意味で『手紙』とは、高い塀を飛び越えた奇跡的な心の跳躍、そして冷たい塀を溶かした温かき血潮の物語なのである。 |
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