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発達心理学者のプレマックによれば、大中小という三区分はともかく、人間には大きさを見分ける能力が生得的に具わっているらしい。生得的に、というのは、つまりそれに見合った体験によって学習するのではなく、まさに新品のPCに初めからついているソフトのようなものだ。あとはちょっとした刺激で、使えるようになるのである。
しかし初めから大きさが認知できるからといって、幼児は大きいほどいいと思っているわけではない。ただ区別し、大きさの違いによって多数を選り分けることが可能なのである。
いったいいつからヒトは、大きいことはいいことだと思い始めたのだろう。
小泉政権は「小さな政府」という言葉を標榜してきた。要するに、国家が直接関わる組織をなるべく少なくし、またその人数も減らすことで国の負担を減らし、基本的には民営化してその運営を資本の原理に委ねようとしたのである。
しかし「小さな政府」という言葉とは裏腹に、政府は大きくなった幼稚園や福祉施設などへの補助金を手厚くした。つまり個々には大きくなるほど勝ち、という構図を、明確に制度化したのが小泉内閣だったと云えるだろう。
市町村の合併も同じ原理である。大きくなるほど補助金が増える。いやそれは、今回の合併の主な原因でさえあった。お金以外に理由のない合併で、数々の歴史ある地名が長い歴史の幕を閉じたのである。
銀行や会社なども、かつてこれほど合併の進んだ時代はなかったように思う。
世界最大の預貯金を誇る三菱UFJ銀行もそうしてできたが、今度は民営化される郵便貯金こそ間違いなく世界最大で二百三十兆円超の資本を持つ。また大蔵省や財務省では立ち入れなかった元の郵政省管轄資金が、これで一元管理できるようにもなったのである。
小泉政権の構造改革とは、要するに権力側の人間にとって管理しやすい単純な構造を作り上げることだったのだろう。官は減らして民に委ね、市場原理での勝負に任せて負ける者には「自己責任」と諦めてもらう。またどうしても国が管理しなくてはならないものについては一元管理する。
同じ理屈で日本全国の博物館や美術館も管理しようと目論んだが、それは独自性こそ重要な文化まで経済原理に平伏させることだと危惧した人々の抗議を招いた。東京芸大の学長平山郁夫氏や建築家の安藤忠雄氏など六十名以上が名を連ねたが、担当部署は「慎重に検討する」と述べたのみ。あの問題はその後、どうなったのだろう。
「大」への欲求の多くは、現在も「大」である者たちの更なる欲望である。国内のみならず、世界に拡大しようとするその欲望を肯定するために生まれた言葉が「グローバル・スタンダード」。どう見ても、これはアメリカ的な欲望の色が濃すぎるスタンダードである。
グローバル・スタンダードが飽くなき競争の世界であることと、世界に戦争が増えたことは無関係ではない。市場原理が否応なく作りだした敗者たちの報復がテロとなり、戦争となる。よく見ると「テロには決して屈しない」と豪語する米英日などの首脳たちこそグローバリズムの推進者。つまり彼らは、男気を示すためにわざわざ青鬼に子供たちを苛めさせた「泣いた赤鬼」そっくりだ。苛められる弱者は堪ったものじゃない。
「大」になれば総身に血が廻りかねることにもなる。国内的にも外交的にも、今や先の三国には問題が山積しているではないか。ここで詳しくは述べないが、一例として三国に共通する監視社会化を挙げておこう。アメリカは入国する全ての外国人に指紋スキャンと顔写真撮影を義務づけ(○四年一月)、日本でもコンビニの監視カメラが今や警察に繋がっている。また英国のブレア首相は落書き・騒音・酔漢の乱行を取り締まる自治体の係員を大幅に増やし、常習者についてはセンサーでその行方を追跡する計画を発表した(○四年八月)。要するに「大」になろうとする方向に目が向いた人々は、それ自体が内側に不満層を作ることを無視し、内側については一律に厳しく監視する体勢を組む。これは最近の傾向であるばかりでなく、昔からそういうことになっているのである。
なんだか「中小」ではなく、「大」の話ばかり書いてしまった。
しかし「大」の弊害が階層分化、市場原理による一元管理、および信用ではなく監視による社会だと書いたわけだから、「中小」の美徳は自ずと見えてくるというものだろう。
卑近すぎる例で恐縮だが、じつはお寺というものも高度経済成長時代、「大」になったところが随分ある。要は墓地を多量に分譲したということなのだが、そのことじたいが山林を破壊し、水源を枯らしたばかりでなく、巨大になれば顔が見えなくなる。従業員を増やしコンピューターを入れれば事務的には対処できるかもしれないが、問題は住職が檀家さんの顔を覚えていないという事態が発生するということだ。私はそれは寺じゃないと思う。それゆえ、二十年まえにこの寺に戻ってからは、ひたすら規模を大きくしない努力をしてきた。二年間坐禅会に無欠席で通わないと、うちでは檀家にしない。そう言えばなかには怒る人だっている。しかし寺として適正な「中小」規模を保ち、ちゃんと檀家さんを家族まで覚えることのほうが、大切だと思ったのである。
むろん会社と寺を一律に語ることはできないし、檀家さんと顧客もずいぶん意味合いは違うだろう。しかし少なくとも共通に云えるのは、大きくなれば従業員も客も、とにかく人間どうしの距離が遠くなる。豆粒のように遠く小さくなったら、事務的に一律に扱うしかないということだ。
組織のなかでは、コンピューターのハブ的な幅広い人間関係をもった人材は重要である。しかしそういう個人も含みつつ、内部だけは隅々まで知っている大多数の社員のネットワークこそが、組織力を最大限に発揮するカギになる。これは数学のネットワーク理論としての「小さな世界(Small World)」の主旨である。
この考え方は、脳内のニューロン・ネットワークから類推したものである。つまり脳こそが、最も効率的なネットワークを作り上げた組織であり、我々もそれに学ぼうというのだ。
近隣との密接な繋がりと、ランダムな遠方との接続。それを大事にしながら、常に適正規模の維持を目指すのが賢明な会社運営ではないだろうか。
『なぜかいい町 一泊旅行』(光文社新書)で池内紀氏は、「ちょっと不便で、現代から少しズレた小さな町」がいいと書いている。大きくなればなるほど、そのシステムそのものがスピードを要求してくる。「せわしなく、あわただしく、めまぐるしくなる」。これは町の話だが、会社も寺もまったく同じだろう。しかしそれが好きだという方は、どうぞどんどん大きくしてください。
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「戦略経営者」2006年10月号(TKC) |
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