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一月九日午後五時すぎ、ちょうど平田精耕老師が遷化されたその頃、私はなぜか老師の書かれた文章を読み返していた。頼まれた原稿を書く資料を見に書庫に入り、そこでたまたま目についた老師の文章を読みだしたらやめられなくなり、部屋に持参して読み耽ってしまった。
私とすれば、老師との運命的な出逢いで天龍僧堂に入門し、まがりなりにも禅僧にしていただいた。その出逢いの場面はいつも鮮明に甦るのだが、その時も、老師が外国の方を案内して天龍寺境内を闊歩されていた姿を憶いだしながら、男っぽい老師の文章を読んでいたのだ。
「詳しいことは知客寮で聞きなさい」
私が入門を決意したその時、老師はさらりとそうおっしゃって立ち去られた。いつだって老師は、大事なことだけ告げると、細かいこと詳しいことは任せるという方だった。だからこそ、弟子の「天性」が大きく伸びたのだろう。先輩たちを見ているとつくづくそう思う。
組織の長としても、そのような老師の在り方は理想的ではなかっただろうか。ときどきお邪魔する宗務本所の人々も、老師のことを「本当のジェントルマン」だとよく言っていた。そして老師に任されて育った人々が伸び伸びと仕事をし、心から老師を支えているのが天龍寺という組織であった。
翌日の午前中、講演先まで電話がかかり、老師の訃報に接したとき、私は前日に読んだ老師の文章を憶いだした。それは念仏や称題の行までも包みこむような坐禅と、そこから生まれる仏智渙発について説かれたものだったが、私はその内容を憶いだしながらも老師の声を聞いたように感じた。
「あとは、……お前さんがどう生きるかだな」
訃報の悲しみが形になるまえに、冬空から射す光のようにその言葉は降ってきたのだった。
駆けつけた天龍寺は冷たい雨で煙っていた。殆んど全ての弟子たち、そしてご縁の深かった大勢の人々がその煙雨のなかに集まってきた。
翌日の密葬も含め、それは盛大なのに静謐な、深い別れの儀式だった。老師の戒めどおり、『観音経』は偈だけでなく全文が唱えられた。
儀式も祭壇も、シンプルで美しかった。白い寒椿の前に一対の寒牡丹がすっくと飾られ、その花は老師の遺影の両側で凛と咲いていた。まるで老師ご自身のようだった。
遺影は老師が天龍寺派管長に就任した平成三年のもの。私にとっては、坐禅中、夕方に禅堂に入ってこられた当時のお姿のままだった。厳しさと、微かなはにかみのような空気を、私は感じた。
お通夜のあとで遺弟の祖高和尚に見せられた遺偈を、私は密葬のあいだ反芻していた。
八十年余 精耕平田
折合却来 一物無獲
天龍集瑞叟
「精耕平田」と、まるで外国人に自己紹介するようなユーモラスな字面だが、それはたぶん老師が折りにふれて肝に銘じたことなのだろう。
「平田」とはむろんご自身のことであり、また生涯かけて精しく一所懸命に耕して到達した平安な心田を示している。だがいまわの際に人生を締めくくるならば(折合して却り来たらば)結局は生まれたままの平安な心田であり、耕したからといって一物も獲てはいないのである。
燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を、の誹りは免れないが、私は遙かな嵐山の煙雨を眺めながら、蘇東坡の「廬山は煙雨、浙江は潮」を憶いだした。到り得て帰り来たれば別事なし。嵐山は煙雨……。
しかしそれを言うには八十年余の精耕があった。あとはお前が自分で精耕しつづけるのみと、老師はおっしゃって出棺された。 |
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