田口ランディさんという方は、きっといろんな人や世界と親しくなる能力に恵まれているのだろう。彼女の書く小説では、いつも作者と登場人物が親しく、分身のようだと感じることも多い。
 そんな彼女がガンそのものをテーマに描くということは、とてもアブナイことだ。私も末期ガン患者が亡くなるまでを描きながら、その患者自身のように声が出なくなり、全身の不調を覚えて怖くなったことがあるが、彼女はおそらくそれ以上の怯えでこの小説を中断したのだろう。小説を書くというのは、たぶんある種の憑依なのである。
 今回の主人公は、外科医でありながらしかも肝臓ガンの患者になってしまう。ガンについて総合的に描こうと思えば、理想的な設定と云えるだろう。しかも作者は、その斐川竜介という医師に、現代の医学でも科学でも説明できそうにない奇妙な能力をもたせる。
 簡単に云えば、それはあらゆる生体から発する情報を感受し、同調し、動かす能力ということだろうか。彼は他者の神経回路ばかりか内臓そのものからもそうした情報を受け取ることができるので、手術においてもゴッド・ハンドを発揮できるのである。
 斐川先生の周囲に、作者はさらに多くの特殊能力の持ち主たちを集める。小児病棟の看護師白川まな子、斐川少年の今は亡き「ばあちゃん」、そして小児病棟の未熟児アイちゃんや、ガンから生還した藤村輪生。いずれも、同列にすることはできないものの、他者や世界との共振力とも云うべき特殊な能力をもっている。ほかに電磁波を研究する高校時代の同級生、星野や、真言密教の阿闍梨、さらには憑き神とか「神の目」まで登場する。これほどまでに、作者が科学の扱えない領域にこだわるのは、むろんそこにこそガンという病をキュアできる鍵があると思うからだ。
 電磁波と呼び、霊性と呼び、気と呼び、想念と呼び、また魂と呼んでもかまわない。それはいわば形になる以前、言語によって意識化される以前の生命の情報とも云えるものだが、たぶん作者は、そうした情報の歪みや混乱が、病を引き起こすと考えたのではないだろうか。
 当然のことながら、主人公の斐川医師もそう思っていろいろと探索する。通常のガン患者の心理からすれば、藁にも縋りたいだろうと思う。これら全てを試してみる人だっているはずである。しかし斐川医師の選択は違っていた。藤村輪生によれば、それはあまりに西洋医学という「誤った科学」を信じすぎているせいだが、ともかく彼は、阿闍梨の加持祈祷にも最終的には腹を立て、藤村輪生の云う「新しい霊性」にも何かが違うと感じ、そして星野の電磁波説とも結局はその欲望に満ちた「心」ゆえに決別するのである。
 心といえばいいのかそれとも意識か、それこそは生命のもつ自然な情報を歪め乱すものではないか。作者はそう思ったのだろう、果敢にも小説の結構を乱す覚悟で未熟児のアイちゃんに意識の発生を含む生命史まで語らせようとする。
 幸か不幸か、人間において強すぎるほどに発達してしまう自我意識。作者はそこにすべての病の根源を見たのではないだろうか。しかしそうだとするなら、それは必然的に斐川医師自身のキュアの限界でもある。つまり、彼は意識をほとんど無化して他者に入り込むことはできても、意識そのものの性格上、自らの意識を含む全体は、けっして感じることができないからである。
 大きく、自然というテーマがいつしか物語の背後から立ち上がってくる。ガンを論ずることは、作者にとっては当初から自然を見つめることだったのである。
 自我意識に邪魔されない他者との共振力も、死んだツバメを生き返らせるという不自然な使い方をすると報いを受ける。その報いこそが自分のガンだと、作者は斐川医師に語らせるのである。
 ちから技によるエピローグは、だから逃げられない自我意識を含んだ現実という自然への着地になった。斐川医師は、医師としての自我や自我を超えた神通力ともども、ガンと一緒に治療者として死ぬまで生きるしかなかったのである。
 ガンも自然の一部と見るべきなのか、どうか。その判断はおそらく読者に委ねられた。「一冊の本」2008年2月号それは作者の、自然への畏敬ゆえではないか。
 たまたまこの本を読んでいる最中に、九十四歳の檀家さんのお爺ちゃんが亡くなった。横行結腸から肝臓や腎臓にもガンは転移していたようなのだが、死亡診断書の直接の死因の欄にはなんと「自然死」と書かれていた。二十年僧侶をしていて、そんな死因にお目にかかったのは初めてだが、私はそのとき、この作品が正確に現状を感受し、同調し、すでに動かしはじめていることを確信したのである。
 今後現代人がガンを語るには、この小説の遠大で総合的な観点が必ずや求められるはずである。
 ※田口ランディ著『キュアcure』は朝日新聞社より1月刊。
「一冊の本」二月号(朝日新聞社)