平田精耕老師が亡くなられた。禅僧の死は「遷化」と云われるから、向こう側に(うつ)られて教化活動を続けられるのだろうが、やはり三等の弟子にとってはこの上なく寂しい。
 それでも我々は
檀家(だんか)さんのお通夜で、「されど(いたず)らに悲しむことを止めよ」と『遺教経(ゆいきょうぎょう)』の言葉を唱え、諭している。「われ(すで)汝等(なんじら)(ため)に戒をおしえまた法を説けり」と、お釈迦(しゃか)さまの最後の言葉を引用し、生き続ける教えを確認せよと迫っているのではないか。
 私は今、それを確認したいと思う。
 老師のなかには伝統と革新が、まるで京都そのもののように息づいていた。老師は京都や日本を愛し、なおかつ国際的でもあった。『無門関』のドイツ語訳をはじめ、十二年つづけられた東西霊性交流も、大きな宗教的意義のあるお仕事だった。
 しかし私には、老師はなにより弟子の志を
看取(みと)り、それを温かく支援してくださる慈父だったと思える。非情の情とでも云うべきか、厳しい室内のその奥底に、温かな眼差(まなざ)しをいつも感じたものだった。
 お側付きの「
隠侍(いんじ)」という役をしていたとき、言われた言葉が今も(よみがえ)る。「世の中にいい人なんて、おりゃせんよ。ただワシの前で、いい人になるだけだ。久さんも、そういう坊さんになれ」
 ちょうど老師が亡くなられた六日後、私に初めての弟子ができた。この春、天龍僧堂に入門することになった。私と同参の佐々木老師に指導を受ける。こうして平田老師も生きつづける。その師匠も、そのまた師匠も「法燈」として生きつづけているのである。
 ありがたきご縁と「法燈」に感謝しつつ、老師のご冥福を心からお祈り申し上げたい。

【作家・禅僧、玄侑宗久】

毎日新聞 2008年2月20日