お坊さんだって怒ってる
玄侑宗久/げんゆうそうきゅう

 標記のタイトルで原稿を受けてしまったものの、その後海の向こうでは多くのお坊さんたちが本当に怒りだした。ビルマでも、チベットでも、またそれを受けて世界中のお坊さんたちも怒っている。彼らの深く潜行した怒りに比べれば、私の怒りなどどうということもない気がするが、約束だから怒ることにする。
 まず最近どうしても腹立たしいのは、昨年施行された学校教育法における言葉遣いである。「助教授」が「准教授」になり、「(ろう)学校」「盲学校」などが「特別支援学校」という枠組になった。いったい助教授では何がいけなかったのだろう。「教授の職務を助ける」というこれまでの麗しい規定を排除したのは、助けるヒマがあったら蹴落(けお)とせということだろうか。新しい規定を読むと、教授と競い合う人にしか思えないのだが、どうもこれは英語のassociate professor からの翻訳であるようだ。むろん「支援学校」だって同じくsupport school だろう。
 英訳したときに都合がいいからと、昔からの日本的感性を写し取った言葉を簡単に()てていいものだろうか。
 言葉くらいのことで、とお思いかもしれないが、この言葉遣いの改変が示すのは、じつは日本が長年に培った大切な社会の仕組みまで彼の国を真似(まね)てばかりいるという情けない状況なのだ。
 郵便局が民営化したのだってそうだ。隅々まで行き渡った世界一の郵便サービスを棄て、田舎に住む人々が不便になることを承知で民営化したのは何故なのか。考えれば考えるほど、巨大な郵便貯金を市場に導くことをあちらさんがお望みだったこと以外の理由は思いつかない。なるほどその後の郵便局を見ていると、投機など経験のないお年寄りたちに、いろいろとリスクの高い投資をせっせと勧めている。
 あちらのお望みどおり小学校から英語を教え、嫌煙権を広げ、そしてメタボリック・シンドロームなどという病気の捏造(ねつぞう)にまで手を貸しつつ、郵便貯金まで上納している。しかも規制緩和というなんだか格好いい呼び方であちらの企業が参入しやすいように手揉みして招く。安全保障のためだとしても、これでは文化まで身売りするようなものだ。
 もともとこの「民営化」というやり方は、あの国の経済学者ミルトン・フリードマンの主張だった。国の仕事は軍と警察以外すべて市場に任すべきだ、という彼の考え方に従い、あの国は一九九○年代から国の付属機関をどんどん民営化していった。
 その結果の惨憺(さんたん)たる現状については、堤未果さんの優れたレポート『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書)を是非お読みになってみていただきたい。教育・医療など、国が責任をとるべき領域を民営化した結果がどうなるのか、読み進むほどに恐ろしくなるはずである。
 問題なのは、この国の執行部たちはあの国のそうした現状を知りつつ真似ているのかどうか、ということだ。
 思いきった言い方をするなら、ブッシュ大統領はわざわざ格差が広がるような政策を行ない続けた。一九七三年に徴兵制を廃止したアメリカとすれば、貧しさのあまり生活のために入隊する兵士を作りだしつづける必要があったのである。
 イラクでの戦争は、兵士以外の運転手や電気技師、あるいはさまざまな作業員など、多くの部門が民営化されている。貧しい若者というだけの共通点をもつ多国籍の人々が、今や割の良い就職の場としてのイラクに派遣社員として出かけ、「自己責任」で死んでいくのだ。
 言葉や制度をあの国に似せれば、内実だって似てくるに決まっている。長年の努力の成果が(みの)り、今や病気も犯罪も格差もあの国に近づいてきた。()せば成ると、きっと大統領もお喜びだろう。
 しかしもういい。いいかげん、あの国をモデルにするのはやめていただけないだろうか。海の向こうのお坊さんたちはもう一つの巨大な金銭信仰の国に怒っているのだが、私は今日もその二つの国の製品なしには過ごせない暮らしが腹立たしく、やりきれないのである。

(げんゆう・そうきゅう=僧侶・作家)
東京新聞 2008年4月25日夕刊