|
禅の公案集である『碧巌録』に、「風流ならざる処もまた風流(不風流処也風流)」という言葉が載っている。これが私の知るかぎり、「風流」の魁だが、この本の完成は一一二五年、まだ平安時代のことである。
その後鎌倉時代になると、山梨県の向嶽寺開山、抜隊得勝禅師の語録のなかに「○○禅師の風流は殊勝なり」と書かれる。ここで風流は、誰某の風流と云うべき名詞に転化していることがわかる。
敢えて訳せば、それは「ゆらぎのある人柄」とでも云えるだろうか。「人柄のゆらぎ」と云ってもいい。先日、電子辞書で風流を引いてみたら「person
of
taste」(=味のある人)と出ており、まさに原意を汲んだ見事な訳に驚いてしまった。
もともと仏教は西洋の人間観と違い、人間に確固としたパーソナリティーなど想定していない。ステディなアイデンティティーなどとんでもない話で、人は六道を輪廻し、十界を旅しながらゆらぎつづける存在である。むろん修羅や畜生、餓鬼に地獄など、大揺れは歓迎できないのだが、ごく微かな「ゆらぎ」は風流と呼んで楽しみながら味わったのである。
どうして「ゆらぎ」が起こるのか、というと、それは我々を取り巻く自然のなかのあらゆる「もの」と情を交えるためだ。山川草木鳥獣虫魚すべてに「情」はあり、それを日本人は「もののあはれ」と呼んで尊んだ。「もの」と情を交えるために、こちらがゆらいで相手に共振している在り方を、古人は風流と呼んで讃えたのである。
禅において、風流はとりわけ珍重された。
心の活発さを最も重視する禅においては、「ゆらぎ」こそ新しい心の発生現場だと捉えられた。そうなると、非日常こそが最も人を揺るがせることにも気づく。死も病気も、怪我も歯痛も、それによって普段の人柄がわずかにゆらぐなら、それは風流でめでたいことなのだ。
むろん人や自然の風情が、あまりに美しいからゆらいでしまうことだってあるだろう。それが後に一般化される風流だ。しかし本来は、逆に自然の脅威、たとえば地震や津波に慌てふためくのも風流なのだ。
大事なのは、予測し、シミュレーションしていたから慌てないということではない。むしろ想定外の出来事にその場でゆらぎながら必死に対応し、思ってもみなかった自分に出逢うことなのである。
だからマニュアルは、最も風流を害する。どだい、想定外のことを減らそうという世の中の進みようが、不風流なのである。
冒頭に掲げた『碧巌録』の言葉は、そんな不風流を認めようというわけではない。
かつての風流さえやがては想定内になってしまうから、常に想定など打ち破って心に風を起こせというのである。
道場ではこの言葉が書かれた警策で叩かれるのだから、まことに恐ろしい。しかし本来自然とは恐ろしいものだし、風流はその恐れを宥めるための言葉だったのである。 |
|