「桜が枝垂れたワケ」
 今年の二月に朝日新聞が桜についてのアンケートを行なった。全国各地四十本の桜を予めリストアップし、そのなかから自分にとってのベスト3を選ばせたのである。
 どうしてそんなに競わせたいのか分からないけれど、ともあれ福島県からは全国最多の六本がエントリーされた。ちなみに二番目に多かったのは岐阜県で五本、次いで山形、山梨から三本が候補になった。
 こういう投票にどの程度の一般性が期待できるのかは不明だが、ともかく結果としては候補になった桜に人気順位がつけられ、結局全国で一番人気の桜は京都円山公園のしだれ桜、第二位が三春の滝桜、そして第三位が東京六義園のしだれ桜ということになったのである。
 上位三本がいずれもしだれ桜だったわけだが、今回のアンケートは四十本の「一本桜」で比べるということだから、圧倒的にしだれ桜に有利だ。山桜もそうだが、染井吉野はなんとなく並木や群生にならないと迫力がない。だいいち、エドヒガンと大島桜を掛け合わせて染井吉野が作られてからまだ百五十年ほどしか経っておらず、樹齢じたいが比較にならない。低樹齢であるだけでなく、しだれ桜と比べればかなり早くに成長がとまり、巨木にもならないから、やっぱり不利なのである。
 初めにも申し上げたように、私はそんなふうに競い合っていったいどうするのかと、基本的には思う。しかし逆に目くじら立てて一律平等でいいじゃないか、というのも変だと思う。
 噂によると、最近までは小学校の運動会でも、順位を決めない駆けっこをしていたらしいが、それはあまりに不自由な思考だと思う。
 あらゆる競争は、神の前での遊びである。人間が真剣に競い合う姿をご覧になって神さまは喜ばれる。相撲が神に奉納されるというのもそういうことだ。
 普段の力とはまた違った力が、神の前では発揮できるかもしれない。それを人間は奇跡とも云い、神のご加護だと云って喜ぶ。実際、勝負ではいつアクシデントが起こるか分からないし、もしかすると勝っていた相手が突然転ぶかもしれない。ふだんどおりの結末を勝手に予想し、勝負そのものを否定するのは神への冒涜とも云えるだろう。
 博打になると、神の存在はなおさら大きくなる。社会的な身分や地位に関係なく、普段は冴えない人でも大勝ちする可能性は否定できない。それこそが気まぐれな神の施しではないだろうか。
 桜の季節が近づくと、おそらくあちこちで、特定の桜の開花日を予想し合う人々がいることだろう。今どきはもう、ノートに大勢の名前が書かれ、それぞれの予想日が記されているのではないだろうか。あるいは開花中に恋を打ち明けようという人もいるかもしれない。とにかく桜が咲くということは、なにか特別なことが起こっても不思議ではないほど、非日常の雰囲気が漂うのである。なにかご褒美がありそう、とも云えるかもしれない。
 さもないことに夢中になる我々も、どうか桜に免じてご勘弁いただきたいと思う。「さ・くら」は名前からして神の宿る木。農業の女神である「さ」が、「さ乙女」や「さみだれ」に先立って、種蒔きの季節を教えるために「降り立つ場所(くら)」なのだから。
 しだれ桜が突然変異で枝垂れ、あらかじめ低頭しているかに見えるのは、もしや我々の代わりに謝ってくれているのだろうか。「いろいろ不調法があるかもしれませんが、あいつらも私のせいでハレ(非日常)に入っちゃってますから、ご勘弁を」と。



「Monmo」No.19 春号/2009年3月号