|
上野の国立博物館・平成館で、妙心寺展が行なわれている。なにしろ開山(初代住職)である関山慧玄禅師の六百五十年遠諱を記念しての一大イヴェントだから、これまでなかなか人目に触れなかった国宝、重要文化財なども一堂に展示される。この機会に是非とも多くの皆さんに体験していただきたいと思う。
どんな展覧会でもそうだが、鑑賞するというのは、モノを見て、その背後にうごめくコトを体験することではないかと思う。
いきなりややこしい話で恐縮だが、これは禅の本質に関わることなのでご容赦いただきたい。
あらゆる表現は、特定の体験(=コト)のなかから、その全体を象徴するようなモノを作り、あるいは抽出する作業であるわけだが、たとえばこうして文字化してみてもそれは「コトのハ」、つまりコトの端、コトの葉だから、体験そのもののごく一部に過ぎないのだと、昔の人は認識していた。どだい自分も含めて変化しつづけたコトが、言葉というモノでそう簡単に表されるはずがないではないか、と。だから禅は、不立文字を標榜するのである。
しかし意識は常にモノを探している。文字に写し、彫像を作り、絵に描き、調度品や装身具を作るばかりでなく、自分の体験に何らかのイメージを持たせ、形あるモノにしようとする。つまり体験としての流動を、なんらかの形で固定しようとするのである。
なにかイメージをもった時点で、すでに純粋なコトではありえないわけだが、禅は、意識のそんな本性を知りつつ、モノに紛らわされず、純粋なコトを体験せよと迫るのである。
関山慧玄禅師は、岐阜の山中で農家の手伝いなどしながら悟後の修行をされていたとき、花園法皇に妙心寺の開山として上洛するよう要請される。そしてどうしても固辞できないと知り、それまで共に働いてきた農民たちに別れを告げると、「なにか教えを」とせがまれる。そこで禅師は、近くにいた農民夫婦の頭を引き寄せてゴツンとぶつけるのである。「痛っ」当然二人はそう叫ぶ。すると禅師は、「そこだ。それを大事にせよ」と言って去ったらしいのである。
「痛っ」と叫んだ刹那には、いのちそのものの紛れもない反応であった。その体験は、私も世界もまだ渾然として分かれない状態のコトだと云えるだろう。しかし人は、次の瞬間にはもう渾沌たるそのコトを分別し、好悪の感情も交え、「ひとごと」としてのモノに変えて語りだす。モノとしてのコトの葉は、すでにコトの残骸でしかない。だから関山禅師は、分別や好悪の起こるまえの「ひとごと」でない体験を大事にせよと、言い残されたのではないだろうか。
妙心寺はその名のとおり、厳しい修行によって「妙なる心」を相続してきた寺である。妙なる心とは、モノ化されていない変幻自在なコトとしての心と云えるだろう。
当然、開山像という木や紙でできたモノも、我々には単なるモノではない。本山にお祀りしていたときにも毎朝お粥を供え、お参りしていたわけだが、じつは東京にお出ましになってからも、東京の和尚さんたちによって毎朝交代でお膳が供えられ、焼香され、お経が唱えられている。いわば拝むという行為によって、それはコトでありつづけ、目前の人と交錯しながらなにかを体験させつづけているのである。
意識の本性がモノ化しようとする以上、あらゆるコトがモノ化していくのは防げない。しかしそうではあっても、我々はその流れを遡上し、モノが溶けだしてコトを感じるとき、感動する生き物なのではないだろうか。
遮二無二拝んでくれと、申し上げているわけではない。
自分の今の現実のままに、無心でモノたちに向き合ってほしい。国宝であれ重文であれ、単に知識というモノを増やすだけでなく、なにか一つにでもどっぷり向き合い、時を忘れてあなただけの体験をしてほしいのである。
関山慧玄禅師は語録も調度も殆んどなにも残さなかった。際だって没蹤跡を貫いた禅僧と云えるだろう。その周囲にこれだけのモノがあるのも不思議ではあるが、そうしたモノたちの歴史を掻き分け、禅師が「そこだ」とおっしゃった命の躍動を体験していただきたい。
妙心寺法堂の天井には、狩野探幽の描いた雲龍図がある。探幽は、当時の管長さんから「実際に龍に逢ってから描いてくれ」と言われ、三年坐禅してから描いたと云う。龍とは、あらゆる概念や感情抜きの、モノ化するまえの自然のことだろう。
妙心寺展が多くのモノによって示すのは、結局のところ我々のなかの幅広く奥深い自然の力にほかならない。
探幽の龍はむろん運び込めないけれど、要はあなたの中の龍に、この機会に出逢ってほしいのである。
|
|