私はこれまで、「死の周辺」と解説されるような、さまざまな小説を書いてきた。死にゆくプロセスの恍惚に思いをいたして『水の舳先』を書き、死そのものの在り方を『アミターバ』で追い求め、また死後の「中陰」から「成仏」までの問題を『中陰の花』ではテーマにした。小説だから、本当はもっと複雑なことも絡んでいるのだが、単純化すればそんな言い方もできると思う。
 その後も『祝福』では植物状態を扱い、『リーラ』では自死をめぐる遺族たちの葛藤をテーマにし、「宴」(ちくま文庫『化蝶散華』所収)では燃え残ったお骨の問題を(いささ)か過激な形で提出した。
 新刊の『四雁川流景』(文藝春秋)を開いても、そういう見方をするなら、「塔」は行方不明、「残り足」は火葬し忘れた義足の話、また「地蔵小路」は交通事故死の話だということになるのだろう。特に場合分けして書いたつもりはないのだが、いつのまにかいろんな死が描かれていた。
 私にとって、死はいつも具体的であり、じつにさまざまな情緒に包まれている。檀家さんが亡くなると、身内の方にお寺に来ていただき、できるだけ細かく故人の話を聞くのだが、どうしてもそれはお知らせに来てくださった人の見方を通したものになる。私にとって故人の死は、必ず身内の誰かの感情のフィルターにくるまれて届くのである。
 哀惜、敬意、感謝、そういった感情に包まれることが多いけれど、時には冷淡なフィルターもあるし、なかには故人の末期を誰もよく知らないことだってある。私自身が本人をよく知っていればいいが、途方に暮れることもある。
 僧侶としての私の仕事は、おそらく故人を肌着のように包むそのような人情や世間での足跡をよく見つめ、温かそうならそのままに、着心地が悪そうなら時には脱がせて、その上に宗教的な衣装を着せて見送ることだろうと思う。戒名と引導香語(いんどうこうご)がメインの衣装であり、臨済宗の場合は最後に「一喝」して肩を押すように送りだす。
 弔辞などを聞いていると判るが、僧侶にかぎらず人はさまざまな物語をそこに持ち込む。「死ぬまで働きどおしだったお爺ちゃん、あっちに行ったらゆっくりお休みください」「奥さんが向こうで待っていることでしょう。どうぞ水入らずで楽しくお過ごしください」「透析で水分を思うように摂れなかった○○さん、どうかこれからは思う存分好きなビールを飲んでください」。
 正直なところ、引導で一喝してからあまり世間的なことを述べられると、宗教的な衣装の上にまたぞろちゃんちゃんこでも被せられた気分になる。しかし私たちの送りだそうとする浄土だって、じつは似たようなレトリックに満ちているのではないか。
 芳しく、光に満ち、生活上の苦渋のすべてから解放された安楽世界。誰のためにも同じ世界を描くとは限らないが、大凡(おおよそ)のイメージはそんなところだろう。死後の世界は生前の苦労を補い、できなかったことも可能になり、送りだす側がなんとか安心できるように描かれる。それはもはや、生き残った人々の欲望ではないか。そう言われればたしかにそういう側面もあるのだと思う。もしかすると釈尊は、そのことに気づいたからこそ死後について「無記(むき)」(ノーコメント)という態度をとりつけたのではないか……。
 枕経(まくらぎよう)に出かけ、死者の顔を見つめていると、ふいに故人の人生や周囲の人々の感情から抽出した自分のなかの物語が、むなしく思えることがある。先日の、生後九カ月で亡くなった子供のときもそうだった。
 両親の断腸の思いや故人の幼い二人の兄の不可思議に応えるべく、私は彼がとても聞き分けよく、この世での修行のカリキュラムを早々に終えたのだと、思い込もうとした。暑すぎた夏の終わりに、彼は秋の清風になって爽やかに去ったのだと……。
 しかしお通夜でそんな話をしてからも、私の口の中には飲み込みきれない固まりのような(わだかま)りが残った。幼い子供の場合は昔から、またこの家に戻って来るようにと願ったりするのだが、彼にはそうも言い切れず、すっきりしすぎた物語への慚愧(ざんき)が着膨れのように心を埋めていく。
 一喝。それは昔から、この世の人々との立ち切りがたい因縁を切るために吐くのだと云われる。しかしこのときの私は、自分の一喝で死が元通り、救いようもなく丸裸に戻ったのを感じた。
 もしかすると、僧侶があれこれ苦吟し、無理に被せた衣装を、自ら引き剥がすのが「一喝」なのだろうか。喝は一瞬の幻だったように、ほどなく死はまた生の衣装を幾重にもまとう。


 
 
  「文藝春秋SPECIAL」2011季刊冬号(文藝春秋)