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私が住職を務める福島県三春町の福聚寺本堂には、(一七五〇〜一八三七)の書いた文字が左右の聯に仕立ててある。それは瓢逸な禅画を無数に描いた博多のさんとは別人のような、峻厳な文字と辛辣な内容である。
さんのことを詳しく知るほどに、そのイメージとはまったく違う聯の言葉が若き日のを強烈に印象づけ、それがまたの魅力を倍加することになった。まずはその言葉をご紹介しよう。
「霊山拈華一場敗闕」「多子分座満面慚紅」。
霊鷲山で釈尊は華を拈じ、ひとり微笑した魔訶迦葉に法を伝えたとされるが、あれは大失敗だ。多子搭の前で魔訶迦葉に座を分かち、袈裟で隠してそこそこ付法したようだが、まったく恥ずかしくて顔まで赤くなっちゃうよ、というのである。
満面慚紅するのがなのかそれとも釈尊と魔訶迦葉なのかは曖昧だが、いずれにしてもそのような「密付」の在り方を、は鋭く批判しているようだ。禅には貶しながら褒めるという複雑な表現もたしかに多いが、おそらくこれは違うだろう。釈尊でさえ絶対化すればその奉る心は停滞する。自在な心のはたらきが失われる。「拈華微笑」というエピソードさえ、無批判に奉ってはいけないのである。
兄弟子である物先海旭が居た福聚寺に投宿しながら、若きはそこで修行する仏弟子たちに向かって気を吐いた。このときはおそらく三十四歳、物先は五十歳で、天明三(一七八三)年のことだったと思われる。
美濃の小作農の三男として生まれたは、十一歳で得度し、在所に近い清泰寺の小僧になる。尋常ならざる向上心を示し、十二歳ですでに不眠不休の臘八大摂心を経験したとも言われる。その後十九歳から三十二歳まで、武蔵の国の東輝庵(現・横浜市宝林寺内)で修行するのだが、師匠は「毒月船」と言われた月船禅慧。が福聚寺に投宿する二年前に八十歳で遷化してはいたが、三春には兄弟子の物先だけでなく、ごく近所に月船の住持していた高乾院もあった。
時は天明の大飢饉の最中。特に東北地方は、数年来の冷害で収穫が激減しており、この年三月には岩木山が噴火、さらに七月には浅間山が噴火して餓死者が続出する。地獄のごとき東北を行脚し、は兄弟子となにを語らい、なにを求めてさらなる行脚を続けたのだろうか。
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