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   は、寛政元(一七八九)年、四十歳のとき、博多聖福寺の第百二十三世住職に正式に就任する。開基は源頼朝であり、山門には後鳥羽上皇の宸筆(しんぴつ)になる「扶桑最初禅窟」の文字が掛かる。この国で最初の禅寺であることが誇らかに宣言されているのである。
 しかし道場の内実は必ずしも充実しているとは云えなかった。先住職であった盤谷紹適(ばんこくしようてき)は、に山内粛正と禅風の再興を託したとも云われるが、財政も困窮していたようだ。栄ある寺の住職となったは、まさに脇目もふらず、名刹(めいさつ)の復興と弟子の養成に尽力した。
 寺の復興と弟子の養成は、にとってじつは別なことではなかった。建物についてはまずは応急処置でしのぎ、早速は修行者たちの秩序づくりに努めた。規矩(きく)を回復し、役位・平僧・雲水の区別をつけ、さらにとにかく坐禅させたのだろう。
 専用の坐禅堂である「樹下堂」が完成するのは五十三歳のときだが、坐禅を重視する姿勢は当初から明確だったはずである。
 こうした厳しさは、当然のことだが自分が修行した東輝庵をモデルにしていた。東輝庵は入門試験からじつに厳しかった。今でも臨済宗の道場では通常庭詰め二日と旦過(たんが)詰め三日という志を試す期間が設けられているが、「帰れ」と云われながらも通常食事だけは出してくれる。しかし東輝庵ではその試験期間は十日間もあり、しかも前半の五日は水だけしか飲めず、後半の五日は完全に断食断水で坐禅していたらしい。まさに死との戦いである。
 しかし長年の行脚放浪の末に落ち着くべき場所に落ち着き、じっくり坐禅ができるということは、にはこの上なく仕合わせなことではなかっただろうか。夜は『臨済録』『碧眼録』『無門関』のほかに、先輩物先がまとめた月船の『武渓集』も講義した。
 ここに掲げた「無事」も『臨済録』の言葉で、「無事是貴人」という。また「求心歇(ぐしんや)(ところ)(すなわ)ち無事」とも云われる。外にあれこれ求めることをやめ、はようやく「無事」という貴い心境で聖福寺の復興に専心することになる。雲水の指導がいかに大変でも、伽藍(がらん)の再建がいかに(はる)かでもの辞書に「自暴自棄」や「挫折」などの言葉はもうなかった。師への感謝があらためて深まる日々、墨痕にも郭然と澄み渡った真に無事なる心境が感じられる。

 
東京新聞夕刊・中日新聞夕刊/文化面 2010年9月10日