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   禅門では、昔から「一円相」というものを描いて闊達(かつたつ)な命や心の在り方を示した。一円相を定義したのは達磨から数えて三代目の僧璨(そうさん)禅師、最初に描いたのは六祖慧能の直弟子で百歳まで生きた南陽慧忠(なんようえちゆう)禅師(六七五~七七五)だと分かっている。その後は多くの祖師方が連綿と判で押したように「○」を描き、禅といえば一円相、というくらいシンボリックなものになってしまった。
 そうなると、たいがい当初の意味合いも薄れ、形骸(けいがい)化してくるものである。一瞬でも惰性で筆を運ぶと生きた円にはならないはずなのに、「○」を描くことじたいが形骸化してはいないか。
 そう思ったは、そんなものは饅頭と同じだから「これくふて茶のめ(あるいは、茶まいれ)」と笑いとばした。そして真に闊達な心の表現として新たに提出したのがこの「○△□」なのである。(私はそう思う。)は大まじめに「扶桑最初禅窟」と記している。わが道場ではこれを標榜(ひようぼう)する、というくらいの気概を込めたに違いない。
 そもそも禅は、なにかを絶対化することは心の停滞と見る。『臨済録』が「釈迦に会っては釈迦を殺せ」と乱暴に言い放つのはその意味である。つまり、どんな状況であってもこれだけ守るとか、これだけは奉るというのは、間違いなく心の不自由であり、死なのだ。
 たとえば大切な仏像だとしても、凍えて死にそうな人がいれば燃やしたっていいのだし、いかに大切な経本でも、それによって洪水が防げるなら川に投げ込んだらいい。
 当然、「○△□」も仏像を燃やすのも、また経典を投げ込むのも、パターン化してしまったらもはや停滞である。要は心が、前例に関係なくその場の必要に応じてどんな形にも立ち現れなくてはならない。じつはそれができるのが三十三に身を変える観音さまであり、が最も敬愛した菩薩だった。
 「物知り」と云われた東輝庵時代にも増して、聖福寺に入ってからもは学び続けた。忙しい公務の合間に、握り飯をもって一日書庫に(こも)り、とうとう大蔵経(だいぞうきよう)を三度も読み通したと云われるが、そんなだからこそ、常に定型を壊す闊達さを持続できた。「百尺竿頭(かんとう)に一歩を進む」という『無門関』の言葉どおり、にとっては弟子の養成も町民とのつきあいも、常に新たな自己の開発だったのである。
 
 
   「○△□」(出光美術館蔵)  
東京新聞夕刊・中日新聞夕刊/文化面 2010年9月14日