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   五十三歳のとき、「樹下堂」と名付けた坐禅堂が完成した。むろん命名は、菩提樹(ぼだいじゆ)下で七日間坐禅して大悟したとされる釈尊に(ちな)んでいる。大勢集まってくる弟子たちの環境整備でもあろうが、それによってまた優秀な雲水が蝟集(いしゆう)したと思える。
 「樹下堂略鑑(じゆかどうりやくかがみ)」の第一条には「吾室既開、欲入即入、爰択時刻」とある。なんぞ時刻を(えら)ばんや、ということは二十四時間参禅を受け付けたのだろうか。また第三条には、進退を失った新人の後輩に対し、先輩は決して声を張り上げて(しか)るようなことをせず、「宜しく慇懃(いんぎん)に教授すべし」と戒めている。自己への厳しさと人への優しさが、においては無理なく同居していたのだろう。
 五十五歳のとき、これはと見込んだ弟子が現れ、はわざわざ書簡を(したた)めて聖福寺へと招く。これが後に聖福寺第百二十四世のいなる湛元等夷(たんげんとうい)であり、信州諏訪の慈雲寺で修行中であった。
 四十代から五十代、さらに湛元に住職を任せる六十二歳まで、が描いたものは殆ど禅機画といっていい。「臨済栽松図」「南泉斬猫図」「香厳撃竹図」「寒山拾得図」「慧能図」「野狐禅図」など、いずれも禅の公案が題材であり、わずかに布袋や宝船など、日本的な題材が少しづつ織り込まれてくる。
 しかし住職を引退し、「虚白院」に隠栖(いんせい)すると、雲水の指導から解放されたは、次第に画材を増やし、またその数も増えてくる。文化十一(一八一四)年、六十五歳のときに書いた「観音大工(かんのんだいし)」という文章には、「他人を益せんが為に起こすならば、喜怒哀楽の心皆大慈悲となる」とあるが、これこそ対機説法の極意。他人を益せんが為なら、はなんでも描くようになっていった。
 が七十歳で描いたのがこの絵だが、もはやここには禅のゼの字もない。賛は「神儒仏三ツ足()立鍋へ(たつなべ)の内 熟ツ(じつ)くりとて、()まひものなり」。
 日本という国に暮らす以上、すでにこの三者は混淆しながら共存している。「他人を益せんが為なら」、禅を強要するのではなく、じっくり煮込んだ汁から自分に効く養分を受け取ってもらうのが大慈悲ではないか。そういえば師匠である月船には「無禅之禅是名正禅」(無禅之禅是名正禅」(無禅の禅()れ正禅と名づく)の一行書がある。師匠孝行の弟子である。
  
 
東京新聞夕刊・中日新聞夕刊/文化面 2010年9月16日