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   はすでに五十二歳のとき、「今年五十又添二、失却従前聰與明」と()に書き、もはや目指すのが聡明さでないことははっきり自覚していた。耳ざとさ(聡)や目ざとさ(明)が結局は自分も人も傷つけることを、若き日の体験から痛感していたのだろう。
 しかしいかんせん弟子の養成にはそれなりに厳しい形も要る。の描く絵や暮らしぶりが本当の意味で聡明さを脱却し、簡略化され、対機説法に徹してくるのは、やはり住職を湛元等夷(たんげんとうい)に譲り、虚白院に閑栖(かんせい)した六十二歳以後ということになるだろう。
 有名な話だが、浦上春琴(うらがみしゆんきん)との出会いには触れておかなくてはなるまい。ちょうどそれは、が藩庁に聖福寺住職の退隠届を提出する半年まえ、文化七【一八一〇)年の春のことだった。
 当時画家として知られた浦上春琴が、博多の豪商松永子登の家に滞在しており、どういうわけかそこを訪ねたという。泥酔した春琴の前で「李仙酔眠の図」を描いたようなのだが、出来栄えに感嘆した春琴はすっかり()め、次のようなことを言ったというのである。
禅師の絵はまことに運筆霊活、じつに妙手です。しかし他人の人ならいざ知らず、私は禅師にしてこの技あることを(ひそ)かに憂えます。かの雪舟を思い起こしてください。雪舟は我が国禅門の高僧でありながら、後世の人はただその画を讃美するばかり。禅僧としての徳など思いもしません。まことに千秋の恨事(はんじ)です。禅師、ここをよくお考えください」
 はこれを聞いて殊勝にも「よく考えを奉じます」と答え、描いた絵を即座に寸断したというのである。(『―その生涯と芸術』中山喜一朗著、参照)
 そのとき春琴は三十二歳、は六十一歳だから、できすぎた話にも思える。が、その後のの絵が「うまさ」を目指さなくなるのは確かだろう。は絵においても聡と明とを失却し、虚白院隠栖後は観音菩薩の如く、ただただ対機説法に徹していくのである。
 初めて「画無法」を宣言するのは七十三歳、「寒山拾得(かんざんじつとく)豊干(ぶかん)禅師図」だった。これはその後の布袋図。以前に示した布袋図には似ても似つかない。「布施して布施を知らず」という「遊戯」にも通じる境地が、簡略な筆致からむしろ明るく力強く湧き出てくる。「法は本無法を法とす」、仏がそう言ったというが、そんなことはあるまい。

 
東京新聞夕刊・中日新聞夕刊/文化面 2010年9月17日