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   のちに「俳聖」と呼ばれる松尾芭蕉は、蕉風俳諧の最終的理念として「軽み」を提示し、元禄七(一六九四)年の秋に没している。生年が百年以上おそいにすれば、すでに芭蕉はけっこう有名人だったのだろう。よく知られた一句「古池や(かわず)飛び込む水の音」をもじったの画賛がいくつか残っている。
 芭蕉の木の下に、カエルが向こうを向いて(たたず)む絵には、「古池や芭蕉飛び込む水の音とある。なんともばかばかしくて、可笑しい。ここでは、静寂を破るカエルの水音に、しかつめらしく命の息吹など感じている芭蕉その人が、笑われているような気がする。
 もう一方の絵では、今度はカエルがこちらを見つめている。賛には「池あらば飛んで芭蕉に聞かせたい」。古池に飛び込むだけで有名になったカエルにこのカエルもあやかりたいようなのだが、どうやらそこには池がないのである。
 には「坐禅蛙(ざぜんがえる)」と呼ばれる画賛もあり、そこには「坐禅して人が仏になるなら()」と書かれている。「それだったらオレなんか、とっくの昔に仏だぜ、ケロッ、ケロッ」ということだろうか。
 いずれにしても、そこにのしかつめらしい主張があるわけではない。『荘子』で言えば「巵言(しげん)」に当たるような、臨機応変で人を笑いに運ぶ表現と云えるだろう。
 七十歳を過ぎると、の人つきあいはどんどん幅広くなってくる。しかも画賛を求める人が多く、「うらめしや我が隠れ家は雪隠(せつちん)か来る人ごとに紙をおいてゆく」などと嘆きつつも、「は物書き役でもなけれどもひとがたのめばしやう事もなし」と全てに応じていく。
 そんな環境で、は時に月船禅師の『武渓集』の記述を憶いださなかっただろうか。師は自らの師である大龍寺の巴陵(はりゆう)和尚について「大龍(じつ)(まなこ)無く、又、澄潭(ちようたん)に在らず」と(けな)し褒めている。眼無しとは手厳しく聞こえるが、ここでは『碧眼録』第二十則をふまえ、澄潭に落ち着くヒマもない無眼の龍の如き衆生済度(しゆじゆうさいど)(たた)えられている。
 とにかく博多に親しみ、博多弁を覚え、博多の老若男女に接するにも、虚白院という澄潭に端座しているヒマはなかった。芭蕉の「軽み」もは知っていただろうが、禅が本来もっている「明るさ」と「軽み」を、世に初めて示したのがではなかっただろうか。 
 
 
東京新聞夕刊・中日新聞夕刊/文化面 2010年9月21日