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石村善右氏の『百話』から一つ紹介しよう。
亭主を亡くした花嫁がの庵を訪れ、前後取り乱してさめざめと泣き崩れる。「ああ、これ、そげん一緒に泣きよると涙が無うなって仕舞うばい。もちょっとナ、涙と云うもんは小出しにして、少しづゝ末永く、仏に御水を御供えするつもりで流すごとしんさい、末永く……、よいな、出来るかな?」
嚙んで含めるが如きの優しさはどうだろう。相手の話す博多弁で応じることも含め、これこそまさに観音菩薩の大悲心ではないか。
思えばは、すでに六十五歳の秋、先に挙げた「観音大工」の文章を書いているが、その三年後にたまたま、博多海岸の砂地から拾ったという金像の観音大工を定介という人からもらう。これがよほど気に入り、運命的とも思ったのか、早速厨子と巌窟(台座)を自ら作り、巌窟背面に「為道空信士恵香信女冥福」と書いて祀るのである。
正式には圓照道空信士と蓮臺恵香信女、それぞれ二十九年まえと十五年まえに亡くなった父と母だが、不思議なことにこの戒名は菩提寺が付与したものとは違う。特に母親は、菩提寺の永昌寺は「義山妙節信女」と付けているから似ても似つかない。
貧しい農家を夫と共に支え、複数の子供を立派に育てた母であれば、「義山妙節」がむしろ相応しいだろう。しかし子供の頃の十年ほどしか一緒に暮らせなかったにすれば、あくまでも母のイメージは観音菩薩に収斂し、そのとおり「蓮臺恵香」と勝手に名付けたのではないか。両親の菩提を弔う気持ちは年を追うごとに強まったようで、八十一歳のときには聖福寺開山堂の月牌供養料として金二歩を奉納し、信士信女を居士大姉に格上げして月牌簿に加えている。
またその間、「観音大工眞像」「楊柳観音」「白衣大士」「水月観音大士」など、さまざまに題した観音像を描いているが、これは涼やかな滝見観音。漢詩の賛は、出光美術館の学芸委員八波浩一氏の素敵な訳で示そう。「清浄なる月のような観音菩薩の御心が空なる世界の中で輝いている。そして、その光は私たちの心の水面に菩提の境地を映してみせ、悟りへといざなう」
理想化された母の姿をそこに見るのは、世俗的すぎるだろうか。冒頭の花嫁をなだめるの語り方は、まるで幼な児の母親のようだが……。
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