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   は通常、古月(こげつ)派の僧とされる。その根拠は、得度した美濃清泰寺の空印円虚(くういんえんきよ)が古月禅材(ぜんざい)の法弟であり、また本格的が修行の師である月船禅慧(げつせんぜんね)も古月の法を()いだとされるからである。しかし近年、秋田大悲寺の笹尾哲雄氏などの論考により、後者についてはその根拠が怪しくなってきた。
 月船の生家は、福島県小野町に秋元家として今も健在だが、その秋元家から『証心略記』という、月船禅師の人法についての文書が出てきたのである。それによれば、月船はどうやら下総(千葉県)与倉大龍寺の巴陵(はりよう)の法を嗣いだとされる。詳しく知りたければ『近世に於ける妙心寺教団と大悲寺』をお勧めするが、ここでは白隠(はくいん)禅師晩年の夢だけ紹介しておこう。
 「白隠年譜」によれば、七十九歳の白隠は十二月のある夜、八人の老尊宿が列座している姿を夢に見たという。八人のなかには愚堂、大愚、無難、正受のほかに、古月や巴陵も含まれていた。大雑把に「鎮西の古月、東海の白隠」などと並び称されるが、優れた禅僧はほかにも大勢おり、その一人に巴陵がいたと考えていいだろう。
 いずれにしても、法系はあまり気にしないでおこう。ただし修行者は、得度の師である授業師と道場での師匠、また同参の先輩雲水の人となりに絶大な影響を受ける。ここでは授業師の空印円虚と東輝庵の月船禅慧、同参だった三人の先輩を確認しておこう。東輝庵四天王と呼ばれた以外の三人は、肥後の太室玄昭、行脚で今投宿している三春福聚寺の物先海旭(もつせんかいきよく)(相馬長松寺の住職でもあった)、そして鎌倉円覚寺中興の祖といわれる誠拙周樗(せいせつしゆうちよ)である。
 二年前の月船の遷化(せんげ)(死)は、誠拙ととで看取ったという。その四年前(二十八歳のとき)に、先輩三人はそれぞれ縁のある寺の住職として道場から退いていた。三十歳で師匠の代わりに講座や参禅も務めただが、「物知り虚仮(こけ)戯言(たわごと)」として満足せず、時あたかもい天明の大飢饉(ききん)の最中、再行脚に出る。三春を出立したは、その後二本松で『臨済録』を講じて名声を博し、福島県黒岩の満願寺には勇ましいこの絵を残す。弓箭(きゆうせん)を以てこの雲水が射貫(いぬ)こうとするものは、「石鞏(せききよう)」のタイトルからすれば、間違いなく「自己」である。 

 
     
     
東京新聞夕刊・中日新聞夕刊/文化面 2010年8月31日