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   知らない文字はない、とまで言われた湛元等夷が、住職退任のやむなきに至り、さらに遠島まで言いつけられた事情は、資料からははっきりしない。ただ『語録』をまとめた三宅酒壺洞(しゆこどう)氏によれば、どうやら聖福寺方丈再建をめぐる寄付に端を発しているようである。
 が住職だった二十三年間には叶わなかった方丈再建だが、湛元は天保六(一八三五)年、いよいよ猶予できないと判断し、かなり強引な寄付懇請に及ぶ。檀家の禄高(ろくだか)に応じ、百石につき米一俵と決めて寄付を要求するのである。
 はっきり申し上げて、これは寄付の概念を逸脱している。普請とはじつに難しいもので、情熱をもって目指すほどにそれは善なる行為になってしまい、そこに自分の欲望が混じっても気づきにくくなる。湛元は寄付に応じなかった福岡藩の家老に立腹し、あろうことかその家の位牌を荒縄で縛り、寺の外に放り出したらしい。檀家は武門の先祖への侮辱だと怒り、藩庁に訴える。これが聞き入れられて住職は解任になり、謹慎を命じられたのだが、謹慎するどころか湛元は勝手に上洛してしまい、とうとう遠島を申しつけられたというのである。
 じつにどうも、匙加減(さじかげん)を知らない。熱心に普請しようとしたからこそ招いた結果だが、善を為すつもりならばこそ「行ない奉る」という謙虚な心がけが必要ではないか(衆善奉行)。賛のように、「生かそふと ころそふと」心の加減ひとつなのに……。
 は、「夢の世の夢のかたり」と題した文章で、次のように書いている。「(およ)そ善悪とハ、むつかしき事に()らず、(ただ)、他人よかれとする事ハ、皆善事なり、我が勝手によしとする事ハ、皆な悪事なり、故曰(ゆえにいわく)、聖人は()のれなし、天下の人の心を(もつて)、己のれ()心とするなり」
 この考えならば、湛元のような失敗も起さなかっただろう。しかしこの考えでは、普請の実際的な計画にも(いた)らなかったのでがないか。
 弟子湛元の匙加減のまずさに、は若いとき「気ちがい猿」とさえ呼ばれたエキセントリックな自分を憶いだしたかもしれない。
 はるか昔に師匠月船に教わった「唯識三性(ゆいしきさんしよう)」の筆頭は、徧計所執性(へんけいしよしゆうしよう)だった。人の心には、執着することをあまねく計ろうとする性がある。「依他起性(えたきしよう)」も、今回の場合大きかったのだろう。家老の態度によって湛元は匙そのものを放り投げたのではないか。いずれにしても八十七歳のにとってはそれは、あまりにも悲しい出来事だった。

 
東京新聞夕刊・中日新聞夕刊/文化面 2010年9月29日