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和尚の墨蹟は、七十代から八十代になっても衰えることなく増え続けていく。つきあいも増え、要求も増えていったのだろうが、いったいこのエネルギーはどうしたことかと目を瞠る。
以前紹介した「うらめしや~」の狂歌のごとく、来る人ごとに置いていく紙に対処しきれなくなったのだろうか、は八十三歳(天保三年)の七月、なんと絶筆宣言をする。ご覧のように、「墨染の袖の湊に筆すてて書きにし愧をさらす浪風」と彫った石碑を、虚白院のそばに建立するのである。絶筆するのに、なにも石碑まで建立することもなかろうと思うのだが、そこがなのだろう。しかもそこまでして宣言しておきながら、以後書画をやめた気配はなく、あまつさえこの絵のように、「絶筆碑の絵」まで何枚も描いてしまうのである。
人によっては、一度は口にし、石にまで彫ったことを守らないとは何事かと、その「志」を疑うかもしれない。しかしの「志」は唯一観音菩薩のごとく「遊戯」として人々に手を差し伸べることであり、それ以外のことは「胡蝶の夢」のように、そのつど状況に応じ、状況のなかでの志」に随えばいい。やめるとは言ったものの、それなら尚更と頼みに来た人々の顔を見たとたん、せめて「絶筆碑」なりとも描いて渡したくなったのだろう。
儒家的な人生を一貫する天明に通じるものだが、『荘子』的志は状況に応じていかように変化してもかまわない。その両者を、は完全に自家薬籠中のものにしていたのだと思う。
絶筆宣言以後、はますます盛んに求めに応じ、ますます多くの書画を描いていく。殊に八十五、六歳の健筆ぶり、面会や動きの多さには舌を巻く。しかしそれよりも驚くのは八十六歳のときに呟くように書いた「獨居の吟」である。「生来獨之、死去獨之、中間之居、旦暮獨之」。福岡長性寺住職の野口善敬氏はこれを以下のように訳す。「生まれるとが独りやったら、死ぬのも独りたい。その間もくさ、朝から晩までずっと独りやろうが」。なるほど禅的な十字街頭における「獨」の境地か。あるいは『荘子』の在宥篇の「獨有」(すべてを自分のものとする境地)の「獨」だろうか。いずれにせよこの「獨」に徹すれば描いても描かなくても同じ。ならば描くのがなのだ。
翌年、湛元等夷が住職を罷免され、が第百二十五世として返り咲く。それはつらいことだが、「獨往獨来」の範疇にすぎない。
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