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自然のエネルギーや命を、龍(陽)と虎(陰)との絡み合いと見た中国人のレトリックには脱帽する。動かない陰の性と動きまわる陽の性、それを大地と天空に象徴させ、大地の気を吸うように歩く虎と、天空そのものを動かす龍とで表現した。両者が出逢うことで「元気」が生まれ、その元気が人間にも分与されるのである。
元気は和尚は、我もと龍虎図を描いてみた。しかしたまたまやってきた雲水か客かが「そら、何でござっしょうか」と訊いた。
「龍に決まっとろうが」答えはしたものの相手は笑うばかり。やがても笑ってしまった。きっとそういうことなのだろう。
もう一方も虎には見てもらえなかったのか、笑われるまえの予防のように「猫乎、虎乎、将た和唐内乎」などと賛している。和唐内とは当時有名だった近松門左衛門の『国性爺合戦』の主人公で、虎を手なずける名人だったらしいが、これを加えたのは照れ隠しだろう。どうせ見たこともない龍や虎なのだから、賛で判ればいいではないか。
ここにこそ絵描きを遠く離れたがいる。龍虎図といえば、昔から絵描きが競って描いた題材だが、もはやにはそれらしく描く気もまったくない。思えば龍虎は元気の源、元気にこうして笑いあうことこそ真髄ではないか
自然そのものを意味する龍虎は、また一寸先のことについても全く予断を許さない。先のことはわからん、という禅僧の基本的態度は、これに由来する。天保八(一八三九)年九月十七日、八十八歳のは病の床に就く。禅僧はたいてい格好いい死生観を遺偈に示すものだが、それも予断のうち。は正直に書く。「来時知来處、去時知去處、不撒手懸、雲深不知處」この世に来た時に、どっちから来たか知っとらんしゃったごと、去る時にもどっちに行きんしゃあか分かるくさ。ばってん、今、崖っぷちにぶらさがっとって、手ば放されけん、雲が深うて、行き先がよう見えんばい(長性寺・野口氏訳)。
「老師、そげな心細かごたあ遺偈やら、格好わるかばい」弟子がそう言ったかどうか、定かではない。しかし更に一言を求められたは、「死にとぅもない」と答えたと言われる。十月七日午前十時ころ、はとうとう厭々還化した。しかし病床に就く直前には自らの陶像を作るためのモデルなどしており、いったい死ぬ気があったのかなかったのか、見当もつかないのである。
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