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   私なりのこだわりでを描いてきたが、抜け落ちた視点も多い。いくつか気になる点を補足しておきたい。
 まずは、幕府や朝廷、また本山などの権力に近づかなかったということ。この点は重要かもしれない。本山である妙心寺から勧請(かんじよう)された瑞世の儀を、は三度まで断っている。これは妙心寺の世代に名前が入り、しかも紫衣(しえ)を着る資格がいただけるというものだが、その代わり大枚を納め、面倒な儀式もしなくてはならない。は寛政十年(四十九歳)、享和二年(五十三歳)、そして天保六年(八十六歳)の三度、この勧請を受けながら断っている。
 自らの未熟さ、また理想とする開山無相大師の美濃における隠栖などを挙げ、断った手紙が残っているが、もともと得度した古月派じたい、「()に千金を費やし、腐躬(ふきゆう)紫飾(ししよく)せんや」と言って「黒衣の長老」たらんとした古月禅材の教えを奉じている。
 師の月船禅慧も同様の考えだし、また荘子も、楚の宰相を頼まれたとき、「立派な廟に亀の剥製として祀られるより、生きた亀として泥の中で尻尾を引きずっていたい」と言って断っている。「名」と「知」の危うさを、を充分知っていたということだろう。
 権威を認めない考え方を背景に、江戸時代初期に臨済僧によって産みだされたとされるのが、「七福神」だが、はこれを好んで描き、さらにその省略形として「三福神」を産みだした。鯛は恵比寿、軍配は布袋、小槌は大黒をそれぞれ象徴するのだが、三者は日本、中国、インドの代表でもある。異質なものが仲良く「さきわい」、「仕合わせ」る秘訣が「哄笑」であることも、ははっきり認識している。また源にある「やほよろづ」への愛情は、がさまざまなモノを愛したことにも繋がっているはずである。
 変わった形の石や貝、あるいは(すずり)や落款、矢立(やたて)、茶碗、茶碗箱なども、は長くいとおしむように使い、触り、また眺めていたものと思える。「豊侈(ほうし)を尊ばず」と自ら書くように、それらはけっして高価なのではなく、むしろ珍奇なのだ。こうした趣味と、権威を求める傾向は、私の経験ではけっして両立しない。
 さて話は違うが、あるとき虚白院に「げんゆう」という武士が訪ね、さかんに絵を頼むので、は雄渾の筆を揮い、「げんゆうが金玉」と書いた(『百語』二九八頁、『百話』第七十三話)。いったい何故、げんゆうはそんなことを書かれ、も何故そんなことを書いたのか、それは今後の研究を待ちたいが、そんなことを書く人が権威を欲しがらないことだけは確かなように思える。
 三福神の絵には関係ないが、私はこの「げんゆうが金玉」が気になって、どうも連載を終えた気がしないのである。(完)
 
東京新聞夕刊・中日新聞夕刊/文化面 2010年10月4日