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石鞏慧蔵は猟師として山の中で鹿を追っていて馬祖道一に会った。そして簡単に言えば、鹿など追わずに自分自身を仕留めよと諭され、その場で馬祖の弟子になったのである。その言葉にというより、石鞏は馬祖道一の全体に漲る気迫に魅了されたのだろう。
馬祖は中国禅の実質上の創始者といってもいいほど重要な人物だが、はなにゆえ自らをその弟子石鞏に準えるような絵を描いたのか、普通に考えれば雲水が弓箭など穏やかじゃない。しかしには、たしかに穏やかならざる心があっただろう。
二十六歳のとき、小僧をしていた美濃の清泰寺から東輝庵に住職派遣の依頼がくる。授業師の空円円虚は四十五歳にして本山妙心寺の第三百七十二世に就任し、その頃はすでに住職も引退して七十三歳だった。おそらく次の次の住職としてが求められたのではなかったか。しかし毒月船はそう簡単に許しはしない。一説によれば、このとき月船は「香厳上樹」という公案を与えてを試したという。
香厳寺の智閑禅師が弟子たちに問いかける。「千尺もある崖の上の樹に登り、口で枝を咥え、両手も放して完全にぶらりと宙に浮いているとしよう。すると樹の下に来た人が、『達磨さんがわざわざ西からやってきて仏法を伝えた真意はなにか』と訊いた。口を開けて一言でも答えれば地面に落下して命を失う。しかし口は開かず黙っていたら、大事な問いに答えられない。さあこの絶対絶命のとき、どうする」
なんだか無茶苦茶な問題だが、はこのとき釈迦と弥勒を引き合いにしてそつなく答えたようだ。月船はしかし認めず、「再考せよ、小器になるな」と叱咤し、清泰寺には他の弟子を送り込んだ。自らの授業寺に戻れなかった失意は激しく、は香厳和尚の故事のように愛蔵していた書籍や写本、帳面、筆硯までも燃やしたという。
その後先輩たちはそれぞれ立派な寺に住職として入寺し、やがて月船にも先立たれたは東北へと旅立つ。その心の底には、もと猟師だった石鞏に自らを準えたように、貧賤なる出自を僻む気持ちが燻ってはいなかったか。荒涼たる飢饉の東北を歩きながら、の心もあてどなく荒んではいなかっただろうか。
この絵はそんな因縁深い香厳和尚が、山中で瓦礫が竹箒に当たる音を聞き、悟った瞬間の絵。四十八歳の、描写力はさすがに確かだ。
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