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宮城県石巻の広済寺には、の筆になる「臨済栽松・南泉斬猫図」の双幅と、「古渡山」の山号額が残っている。
広済寺住職の濟渡恵啓氏によれば、寺に語り継がれてきた言い伝えでは、はこのとき半年ほど滞在していたのだという。また日天掃除の雑巾で「古渡山」の文字を書いたとも言い伝えられている。
しかし残念ながら山号額には「扶桑最初禅窟僊拝書」とあり、が四十歳で博多聖福寺の住職になってからの書であることは明らかである。残念ながらと書いたのは、聖福寺住職になってから半年もこの寺に滞在したというのは考えにくく、そうなると掛け軸箱書きにある「半才程逗留」という文字も信じにくくなってくるからである。
しかしおそらくはそうではあるまい。これは私見というしかないのだが、は行脚で三春、福島と北上したあとに、さらに石巻界隈まで足を延ばし、本当に毎朝日天掃除もしながら半年ほど広済寺に滞在していたのではあるまいか。
天明の飢饉は北に行くほどに「やませ」などの影響で酷く、広済寺の周囲にも飢餓者があふれていた。じつは広済寺の境内には高さ約六メートルあまりの稲井石でできた供養塔がある。天明(一七八三)年の凶作による飢饉者の供養塔である。文化年間の飢饉の死者も含め、そこには多くの行き倒れの死者たちが埋葬されている。遺体は損傷がひどく、悪臭も放つし犬猫も食うため、まとめてここに埋められたというのである。
そう思ってこの「臨済栽松図」を見ると、これは弟子の養成の象徴としての「松を栽える」作業というより、必死に遺体埋葬の穴を掘る姿にも見えてくる。はあるいはこの寺で、飢饉による死者の埋葬を手伝いながら「半才程」も逗留したのではないか。
明らかに、山号額と双幅の絵は、別な時に描かれたものだろう。当時の広済寺住職がとどういう関係にあった人かは不明だが、そのときのご縁で後日山号額を頼まれることは充分あり得る気がする。聖福寺の雲水も広済寺には出入りしたと伝えられるのである。
広済寺は北上川の畔に臨んでおり、『臨済録』の序文「院古渡に臨んで」に因み、山号を「古渡山」と名付けられた。ここで「臨済栽松図」を描くのは、何事がなくとも禅僧としてはじつにマットウな感覚なのだが…。
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