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自筆の歌集『すて小舟』には「塩竃より松島へ渡舟中実景」と題された歌がある。これが果たして天明年間の行脚のときのものかどうかは分からないが、の東北行脚がかなり広範にわたったことは確かである。
一説のよれば、は北上川のほとりで生き倒れて死にかけ、すんでのところで助けられたとも云われる。北上川といえば、石巻の広済寺からもほど近い。助けられてから長逗留していたのか、それとも広済寺を出てから行き倒れたのか、いずれにしてもこの天明年間は、そんな話が不思議じゃないほど、東北地方は酷い状況だった。
天明の飢饉の惨状を記録した『後見草』によれば、津軽地方がとくにひどく、毎日二千人もの流民が発生して他藩に逃散していったが、そこでも食べるものはなく餓死に追い込まれ、果ては屍体から肉を切り取って食べる者や、人肉を犬肉と偽って売る者まで現れたという。『天明卯辰簗』という本にはさらにおぞましい地獄の様相も描かれている。公には数万人が餓死したとされる天明の大飢饉の被害はじつはもっと多く、弘前藩だけで餓死者は八万とも十三万とも云われる。
そんな状況の東北地方をわざわざ行脚したの心は、いったい那辺にあったのか。
立派な寺に入寺した三人の先輩と違い、師匠である月船を見送っても入る寺の決まらなかったには、どこか自嘲的な気分があったりはしなかっただろうか。美濃清泰寺への入寺が叶わず、ヤケになったは、東輝庵の裏山、墓地の崖の横穴に、筵一枚持ち込み、勝手に独り暮らしを始めたという話もある。徹底して周囲を掃き清め、村に出て百姓仕事や工事人夫を手伝い、托鉢で暮らしていたというのである。
そういえば、という道号には墓地の崖で仙人のように暮らす自分を揶揄するような響きも感じる。実際、「仙崖」という号は初期(満願寺「石鞏図)だけでなく、後年もときどき使っている。
真偽のほどは判らないが、行脚に出るまえのその時期のは、時には師の庵に土塊を投げつつ、塔婆を引いて投げるような狼藉も働いていたらしい。後の表現意欲を想えば、自我が人一倍強かったのは確かだろう。この絵は、友人の医師のために、七十四歳のが穏やかに憶いだした東輝庵である。もはや崖の穴もよくわからない。
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