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   越後(新潟県)で千五百人以上が死んだとされる三条大地震(一八二八年)のあと、「災害に遭う時節には災難に遭うがよく候」と友人に書き送ったのはより八つ下の大愚良寛(だいぐりようかん)だった。
 この考え方は、禅というより、むしろ全てを天命として受け入れ、随順(ずいじゆん)することで精神の自由を得る『荘子』の思想である。良寛は、旅の道中には必ず二卷組の『荘子』を携帯していたとされる。
 にも「荘子の夢」と題したこの作品がある。賛には「吹きやった處で(あそぶ)胡蝶哉」とあり、『荘子』斉物論(せいぶつろん)篇の「胡蝶の夢」の思想が深く理解されていることがわかる。
 要するに、どんなに厳しい現実も、やがて夢として思い返されるような覚醒(かくせい)を人は必ず経験する。しかし、いや、だからこそ、今はその現実に没頭して遊ぶだけだ。吹かれればその場で遊ぶしたたかさを、はかよわき蝶に見る。それは農民という常に支配を受ける人々の生き方なのである。
 天明の大飢饉は、にとっておぞましいほど過酷な現実だったはずである。しかし岩木山や浅間山が噴火し、その三年後に箱根山が噴火するのをいったい誰が防げるだろう。火山灰による冷害に地震や長雨まで加わり、天明六(一七八六)年には関八州の水害もあって、米の収穫は例年の三分の一に落ち込み、米価は十五倍に跳ね上がった。
 貧しい農民の家に生まれたは、このときの農民たちの苦しみを、痛いほど感じながら行脚していたのだろう。しかしそれは、遭うしかない災難であり、随順すべき天命と受け止めるしかなかった。
 後には、五十二歳のとき「失却す従前の聡と明とを」と宣言し。それまで目指してきた聡明さをかなぐり捨てる。明らかにこれは『荘子』大宗師(だいそうし)篇の「聡明を黜け」を受けており、聖福寺住職を引退したときに住んだ「虚白院」という(いおり)も、同じく『荘子』人間篇の「虚室に白を生ず」に由来する。茶人島井宗室の法名に因る命名をそのまま使ったようだが、が『荘子』の愛読者だったのは明白である。
 天明六年、当方地方から越後に抜けたは、そこで法事のため岡山から帰郷していた良寛と逢ったという説がある。今後の研究を()たなければ真偽も定かではないが、説としてはあまりに面白い。
 が『荘子』の思想を体現するのは後年のことだが、このとき良寛と『荘子』談義をした可能性を、私は否定しきれないのである。  

 
東京新聞夕刊・中日新聞夕刊/文化面 2010年9月6日