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は幼いころから精進努力の人であった。しかし精進努力に人には、往々にしてそうしない人への侮蔑が生まれ、ある種の傲岸さが現れてしまうものである。行脚に出た当時のにはどうしてもその気配を感じてしまう。宇都宮七万石のとある道場では法論を挑み、徹底的に論破はしたものの、罵倒までした相手に闇討ちで袋だたきにされたとの話が残っている。
がその後、どんどん天明飢饉の被災地深く入り込んでいったことを思うと、私は相当ショキングな出来事がの身に起こったのではないかと思う。思い浮かぶのは、闇討ちなどよりも、むしろ三春での物先海旭との邂逅である。
より十七歳も先輩である物先は、すでに明和八(一七七一)年に相馬長松寺の住寺になっていたが、が三春を訪れたと思われる天明三(一七八)年にはなぜか長松寺から本寺の福聚寺に「遁居」していたのである。
じつはその二年前に福聚寺は火災で焼失し、が訪ねた時には本堂も庫裡もなかった。おそらく再建の準備をしながら、仮住まいに物先と若い住職大信が侘び住まいしていたのではないだろうか。むろん他にも弟子は居ただろうが、外部から通っていたはずである。
が何日ほど逗留したのか分からないが、そこでが見たものは、本来は自分がすべきだった師匠月船の遺稿集作りをこつこつと進めてきた物先の姿だった。二巻組の『武渓集』は、天明二年に松江城主松平不昧公から「後書」をもらい、翌三年、つまりがやってきた年に刊行されている。物先が編纂作業をしたのが長松寺か福聚寺かは定かでないが、ともかく物先は火事の遭った本寺の窮状を座視するに忍びず、当時は福聚寺に「遁居」しながら大信などを厳しく導いていたのだろう。今も福聚寺に残る『武渓集』には物先自身の朱筆が克明に書き込まれている。またこのときは、月船自筆の偈をいわば丁寧にスクラップした『白蘋紅蓼』も見たはずである。
須弥山のように大きかったの我見は、物先のこの無私なる作業を見て激しく揺らぐ。そしてさまようような行脚彷徨のあげく美濃で我見を溶解させ、喜び勇んで誠拙を訪ねたあと、その年(天明七年)に東輝庵を嗣いだばかりの物先を訪ねるのである。
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