|
やんちゃで我も強いが、真摯な努力家でもある。そんなを、時には眉をひそめながらも暖かく見守る兄弟子たちの存在は大きい。
五つ年上の誠拙は、東輝庵の裏山に籠ったをはらはらしながらも優しく見守っていたことだろう。また十七歳年長の物先は、本堂の焼失した福聚寺でを迎えながら、やがて再建される本堂に掛けるべき聯を、期待する後輩に書かせた。
そして行脚の後、はからりとした顔と心で美濃から円覚寺の誠拙を訪ねる。開悟の喜びを共にし、それから東輝庵に物先を訪ねる。物先は長松寺住職から福聚寺「遁悟」を経て、天明七(一七八七)年に東輝庵の師家になっていた。このとき物先は特別のはからいでに講座を受け持たせ、弟子たちの前で四十八日間、『無門関』を講じさせたというのだが、まさにこの上もない歓迎ぶりと云えるだろう。
しかしもっともっと大きな変化が、今度は月船禅師の一番年長の法嗣である太室玄昭によってもたらされる。天明七年、当時大宰府戒壇院(観世音寺)の看坊であった太室玄昭は、この国に初めて禅を伝えた栄西の由緒寺、博多の聖福寺が後継住職を捜していることを知り、を推挙したようなのである。聖福寺第百二十二世の盤谷紹適は、妙心寺塔頭雲祥院と大珠院の推挙によって正式にを拝請するため、塔頭順心庵の住職を上京させる。はこのとき京都に居り、この申し出を承諾するのである。
このときのの喜びを想うと、「承諾」どころか欣喜雀躍という言葉さえ浮かぶ。先輩たちの慈愛と高配とに、はどれほど感謝しただろう。やはり学問や修行や思索の結果ばかりでなく、ご縁によって「そのとき」が来るのである。
「扶桑最初禅窟」という言葉に、は待ちに待って住職になった喜びとプライドを込めた。しかし翌天明八年に九州まで来てみると、そこには東輝庵のように厳しい規矩もなく、坐禅も満足に行われていなかったようだ。
この絵には、そんな環境で率先して坐禅するの、自嘲的な嗤いが聞こえるようだ。賛は「そちらむひてなにしやる」。面壁の達磨には二祖慧可が現れたが、はたしてには誰か現れるのか。
|
|