『臨済録(りんざいろく)』に、「途中に在りて家舎(かしや)を離れず」という言葉がある。誰しも歩んでいる最中は「途中」である。しかしたとえば、右足が宙に浮いていれば、左足は必ず大地を踏みしめている。逆もまた然り。つまり片足が地に着いていればこそ、もう片方を途中に浮かせて進むことができるのだ。人生も、そういうものではないだろうか。
 今現在の景色から、今後死ぬまでにしておきたいことなどを深く考えてみても、あまり意味はない。なぜなら我々はそうして絶え間なく歩みつづけるのだし、(したが)って景色も変わりづるけるからである。
 しておきたいこと、しなくてはいけないことは、むしろ歩くという行為によって次々に発生する。今まで見えなかった景色が現れ、会ったことのない人にも出会う。ときには上げた足が予定通り下ろせないことだって起こるだろう。そんなときは、大地に残した足に重心を戻し、瞬時に次なる家舎を探さなくてはならない。
 いま足を置いたそこが束の間の家舎になる。それは家族との一言であったり、友人への笑顔であったり、また美しい自然の景色であったりするのだろう。いずれにしてもそこに安らぎを感じたすぐあとには、それを軸足にしてもう次の一歩を踏み出している。
 死ぬまでそのような歩みがつづくのだと思う。
 歩みつづけられなくて倒れることが死だとするなら、その直前には重心も傾いて体勢もくずれ、リカバーしたくてもできない、という事態が誰にでも発生しているはずである。その意味では皆、やり残しをそのまま残して死ぬのだろう。懸命に歩きつづけてそのように倒れることを、どうして恥じることがあるだろう。要は、やり残しさえ教えや愛嬌とみえるような関係を、出会う人々との間に築きつつ歩むことではないか。
 京都の妙心寺開山である開山慧玄(かんざんえげん)禅師は、八十四歳で後のことを弟子に任せ、もう一度行脚に出るべく旅姿で井戸端に立ちつくしたまま、立亡(りゆうぼう)されたという。まさに「途中に在りて家舎を離れず」。最後まで上げようとした足が、たまたま上がらなくなったのが禅師の死だったのである。
 自分の死のプランを細々(こまごま)と立て、周囲に迷惑がかからないようにと考える人が近頃は多いと聞く。しかしどんな生き方でも死に方でも、周囲には迷惑に決まっている。そんな気を遣うより、私には次の一歩をどこに置くかが大事だ。きっと死ぬまでそうだろうと思う。いや、これだって変わるかもしれない……、か。どう考えても、人生は先が見えないからこそ面白い。だからこそ生きるに値するのだと思う。

 
 
「中央公論」2010年12月号