まったく自由、何でもいいと言われると、書くのもずいぶん困るものだと気づいた。私が書かなくとも、空も山もべつに変わらないし、鳥や魚に異変が起こるわけでもない。誰も死なないとは言わないが、死ぬのは私が書いても書かなくても変わるまい。自然。一言でいえば、そこに何の影響も与えられない自分が歯がゆい。
 たいていは、たとえば川辺の石を動かしてひっくり返し、「ほら、この石の裏」とか、近くの木の葉をもってきて、「この葉脈を見てくださいよ」などと編集者が言い、私にちょっとした自然の亀裂というか、火のない処の煙など見せて、こちらの食指を無理にも動かしたりするものである。
 すると私も、「おお、こんな虫が」とか、「たしかに尋常ならざる葉脈」などと呟き、いっぱし驚いたり弱ったりしつつ、提示されたテーマに応えようと、ない智慧を振り絞って書くのである。
 ところが指示されたのは「群像」、そしてエッセイ、それだけ。川は流れ、山は動かない。いったいどうすればいいのか。
 もしかするとこれは、そういう試練がいま私に与えられているということか……。物語に逃げ込まず、テーマなど人工的なものも捉えることなく書け、と。
 ふと気づくと、川辺に六人ほどの男たちが背を向けて蹲っている。まずい、こんな意味ありげな状況から、物語が立ち上がらないわけがない。六人はいったい何のために蹲り、しかもなにゆえ同じような赤い服を着ているのか、そこを描写しただけで何かが始まってしまうではないか。恐る恐る近づいてみると。誰もなにもしていない……。いや、それでは尚更いわくありげだ。そう思ってよく見ると、六人の男たちは横一列に並んで沢蟹を捕っていたのである。私はなにも物語る気はない。テーマも特にない。六人の男たちが赤い服を着て蟹を捕っていたのも、単なる風景にすぎないのだから、忘れてほしい。
 しばらく川辺の道を行くと、困ったことに今度は五人の女たちが着ているものを脱いで川で洗濯している。そんな風景を、昔インドネシアで見たが、ここはどこなのか。そしてさっきの六人の男との関係はあるのか、どうか。詮索しないでほしい。あなたは物語を欲しているかもしれないが、今の私は物語る気などないのだから。
 あ、まずい。上流から大きな桃が流れてきた。しかも五人のうちの二人が川の中心部まで裸のまま泳いでいき、二人で岸辺まで運んできた。いったい何が起こるのか、つい想像してしまう自分に張り手を食わす如き厳しさで、私はそれ以上考えないため、ただ女たちの胸や股間の陰影に目をこらす。いや、けっしてそこが見たいからではなく、思考を停止するため私はやむを得ずその辺りを見ているのである。
 しかし五人の女たちが近くの石や木の枝を持ち、桃に襲いかかるに及んで、私の目線も胸や股間に安住してはいられなくなった。なにも起こってほしくないのに、彼女たちは一体なにをしようというのか。
 あ、桃の大きな核が割れ、もう一人裸の娘が出てきた。しかも五人の女たちと娘は、懐かしそうにハグしている。そうなるとさっきの六人の男たちがあらためて気になる。六人と六人。いったいぜんたい彼らはどういう関係なのか。気にはなるが、そんなことを気にしていたら先に進めないので、私は進む。
 しばらく進むと、どういうわけか洞窟があって、中で髭もじゃのお爺さんが炬燵にあたっていた。炬燵? ここはやはり日本なのか……。そういえば、自然の中にいること以外なにも状況設定をしていなかったと気づく。物語らないのだから当たり前か……。
 蠟燭の明かりに浮かびあがる髭もじゃの老人……。向き合う私は誰なのか……。ふとそう思ったとき、老人の嗄れた声が響いた。
「なにしに来た」
 そうだ。私はこんな処で何をしているのか。むろんそんな戸惑いは見せず、私は「なにしているんですか」と逆に聞き返す。ふっふっふ。「誰? いま嗤ったのは」「お前だよ」「え」
 事態がよく呑み込めないのだが、なんだか懐かしい。深い闇を背後に背負い、老人の眼だけが輝く。あらゆる物語が生まれそうでありながら、しかしなにも生まれてこない。渾沌。恬淡。無為。心地よい闇に、そうしてどれほど佇んでいただろう。気がつくと後ろから賑やかな音がして、さっきの女たちがカラフルな服地を翻しつつ入ってきた。そして老人を囲むようにみな炬燵に若い脚を突っ込んだから、私はいきおい洞窟の奥に後ずさったのである。
 やがて入ってきた赤い服の男たちは、私がそこに居ると知っていたかのように、まっすぐ私に向かってきて全身を押え、床に転がっていた流木に縛り付けた。速やかに炬燵を囲み、薄闇に車座になった男たちは、口々に私を罵った。
「何なんだよ、これは」「蟹取りだぁ」「なんで赤い服なんだ?」すると女たちも囃すように非難を加えた。「なんであたしが桃から生まれるのよ」「なんて格好させるの」「あんたの頭、どうなってんのよ」「どこが自然なのよ」「責任とってよ」
 ああ、自由ほど不自由なものはない。ふっふっふ。今度は老人が嗤った。私は不自由に縛られたまま、ようやく自由を感じはじめていた。



 
  「群像」2010年12月号
「群像」2010年12月号