編集部から、「ビジネスマンと般若心経」というテーマでの執筆の依頼があったのだが、いったいビズネスマンとその他の人々は、何がどう違うのだろう。
 直観的に思うのは、ビジネスマンは厳密に計画どおり事を進めなくてはならない、と思い込んでいる、ということだろうか。
 むろん主婦にだって、緻密な計画はある。その場かぎりの食事の段取りにも、買い物や実際の調理、そしてほかの仕事との配分など、じつに立体的な計画があるのだと思う。
 しかし主婦や子供などの場合、その仕事がどの程度全体の歯車になっているかを考えると、けっこう独立自尊である。その時の気分で多少の変更は可能だし、場合によっては買い物の現場で料理の品目を変えても誰かが甚大な被害を被るわけではない。子供はもっと極端で、たとえば頼まれた事を忘れて道草をくってしまっても、叱られる程度でなんとかなってしまうのである。
 ビジネスマンは、それが命取りになる。本当はなんとかならないこともないのだが、それを言ったらビジネスじゃないと、みんなが思っている。何がなんでも今日中に仕上げる。今月のノルマを達成する、それを至上命令として、多少の状況変化はモノともせず、あくまでも当初の計画どおり事を進めようとするのである。
 農業者と比べてもその点は不自由だろう。環境や天候などに左右されやすいのはむしろ農業のほうなのに、彼らはそうした思わぬ出来事に慣れている。雨が降れば作業は延期、台風が来れば計画を進めるまえに修復と、想定外のことが頻繁に押し寄せてくるのだが、彼らにすれば想定外もじつは想定内なのである。雨が降り続いても、彼らは案外明るい。明るく諦めている。
 諦めず、しかも計画どおり遂行できずに暗くなっているのが、最近のビジネスマンではないだろうか。おそらくその最も大きな理由は、彼らが諸行無常の世界を計画や予定という想定のうちにむりやり押し込め、しかも自分自身のことも想定内の存在として見くびっているからだろうと思える。
 最も明るくあきらめるべき事柄が、仏教者にとっては「空」と呼ばれる。それについて書かれた経典が『般若心経』である。
 簡単に言ってしまえば、空とは、あらゆる現象が縁起のなかで生起し、無常のうちに変化するということ。つまり、何事にも「それ自体」ということがない、ということだ。
 だから本当は、今月初めの計画も今朝立てた予定もすでに過去の残骸であり、そんなことを考えた自分だって変化している。
 しかしこれを実感するのはとても難しい。ビジネスマンならずとも、みな「わたし自身」を信じ、役職や立場という縁で結ばれた虚像を実体であるかのように演じつづける。しかも本来は時と場合に応じて無常に演じ分けるべきところ、硬直した「わたし自身」のまま家に帰り、食事中でもお風呂でもそのまま通そうというのだから不自由きわまりない。いつも変わらぬ確かな「わたし自身」を構築しようとする真面目な人が、それに失敗してウツになったりもする。
 
     
     
     
   思えば日本では、戦後教育のなかで「個性」が強調されすぎてきた。それが「わたし自身」をより強固にし、より執拗な「苦」を作りだしているのだと思う。
「苦」からの解脱こそ釈尊の終生のテーマだったわけだが、なにより釈尊の偉大さは、「苦」から解放されるには、「わたし自身」を溶解させればいいのである。
「わたし自身」という個性は、あくまでも結果についての呼び名にすぎず、自然の分身としての「自分」は本当にどのようにでも変化できる。いや、今も休みなく変化し続けているのだ。そのことを、『般若心経』は「色即是空」と説くのである。むろん「色」とはこの場合過去の集積としての「わたし自身」だ。
 ならば過去から飛び立ち、窮屈な「わたし自身」から解放されるためにはどうすればいいのか。
 釈尊は、ひたすらに瞑想を勧めた。メディテーションである。
 しかしこの方法は些か専門的な訓練を要する。そこで仏教が大衆化した頃に、もっと簡単な方法を提唱する人が現れた。それが『般若心経』に説かれる咒文だったのである。
『般若心経』の特異性は、なにより釈尊が一度は否定した「咒文」の効果を、最大限に謳いあげたことにあるだろう。「ぎゃーてーぎゃーてー~」という最後の咒文だけでなく、じつは『般若心経』の全体が暗記して唱えるべき咒文なのである。
 暗記した何かを唱えるという文化は、戦後は極端に軽んじられてきた。我々の世代が教わったのは、いつも「思考」は素晴らしいという話ばかりだった。なるほど思考とは、常に過去を材料に展開されるから、いわゆる一貫性のあるアイデンティティーがそれによって導かれるのだろう。
 しかし考えてみていただきたい。禅の修行とは、死ぬほど叩かれながら、わざわざ無「思考」を訓練し、そうした作り物のアイデンティティーを溶解させようとしているのである。言葉が深い沈黙から湧き出すように、「思考」もじつは直観的に無「思考」の渾沌から染み出てくるほうが素晴らしいのだと、仏教は考えている。いや、仏教だけでなく、それはインドのあらゆる宗教、そしてキリスト教やイスラム教にも共通した認識なのである。
 実際、暗記して唱えてみていただけるとご理解いただけると思うが、暗誦している最中にはあらゆる「思考」を離れ、「わたし自身」の好悪やさまざまな判断も休止している。感覚は却って鋭敏になり、よく見え、よく聞こえているのに、なんの価値判断もしていないのだ。
 
     
     
     
    ここでわざわざビジネスマンのために『般若心経』を説くのは、普段「わたし自身」としてあらゆる価値判断を迫られ、計画遂行に献身するビジネスマンにこそ、そのような無「思考」の時間をもっていただきたいからだ。
 じつを云うと、その効果はお経じゃなくとも同じである。会社で思い悩み、部屋の隅で『般若心経』を唱えだしたのでは同僚に気持ち悪がられるのが関の山だろうから、ここでは落語の「寿限無」にしてみよう。
 ご承知のように「じゅげむ」とは、誕生した子供にできるだけ長生きしそうな目出度い名前をつけてほしいと頼まれた和尚が、ちっとも決定的な名前を言わない。そこで和尚が口にした名前を連ねておけば間違いなかろうと、ひときわ長い名前になったわけだが、間違いなくこれらの名前は音韻が中心に考えられたいる。つまり、唱えやすいような音が中心に考えられている。つまり、唱えやすいような音が選ばれているのだ。
 だいたい、「寿限無」じたい、「ことぶき限りなし」と解説されるのだから、意味からすれば「寿限無」のはずではないか。しかしそれでは発音しにくいから、「じゅげむ」になったのである。
 全体を一応紹介しておこう。
「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の、水行末、雲来末、食う寝る処に住む処、藪ら小路ぶら小路、パイポパイポパイポのシューリンガン、フーリンタイの、ポンポコナのポンポコピーの、長久命の長助」
 和尚はそれなりに意味を解説するのだが、そんなものはアテにならない。古典的典拠など殆どなく、ただゴロがいいから作られたこじつけのような言葉だ。
 しかしこの、ゴロがいい言葉を唱える機会が一日に何度もあることの重要さを、この和尚はよ~く承知しているのである。
 たいていはこの子供、親の願いどおり、健康にすくすく育ったと語られるのだが、そのこととこのお経のような無意味に長い名前は、たぶん無関係ではない。江戸時代の落語作家の意図はいざ知らず、少なくとも私にはそう思えるのである。
 一度この名前をすっかり覚え込み、暗誦してみてほしい。そして、何かにつけて家庭内でこの名前を唱える場面を想像してみていただきたい。
 腹が立って子供を叱ろうとしても、たいがいこの名前を唱えているうちに気分は平静になってしまうだろう。逆に昂奮したり感激しても、唱えるうちには冷静で淡い感慨に移行するだろう。つまりそこには、穏やかで平和な家庭が、いつしか実現してしまうのである。
 そう、このリズミカルな音の連なりを発語するうちに「わたし自身」の輪郭はどうも薄くなってくる。なぜなら、思考し、喜怒哀楽を感じる「わたし自身」は暗誦の際には邪魔にしかならないからだ。たぶん暗記した音を再生する主体もそれを聞く主体も、「わたし自身」ではない何物かなのだろう。
「寿限無」でさえそうなのだから、ましてや況や『般若心経』をや、である。あのお経は音もいいが意味も深甚である。本当は子供のように素直に、ただ無意味に覚えて再生してほしいものだが、知的なあなたにそれは無理だろうから、まずは意味を知り、それからじっくり暗誦することで意味を超えていただきたい。
 無思考な時間が、最良の判断を導く……。あなたはこれを、信じますか? 信じるなら、「寿限無」から『般若心経』に進んでください。
 
     
「PRESIDENT+PLUS」 2010年12月25日号