拙作『アブラクサスの祭』(新潮文庫)を原作にした同名の映画が、まもなく東京でも封切りになる。地元福島県では十月九日からの先行上映だったのだが、じつはその前日の十月八日の出来事である。
 夜の七時をまわってから、玄関の呼び鈴が鳴った。来客の予定はなかったから、まずはインターフォンに出てみると、太い男の声が名乗り、話がしたくて来たという。話がしたいと言われても、そろそろ夕食の時間である。迷った末に「どうぞ」と言ったのがマズかった。
 玄関から上がってきた男は、日本名だと思ったのに、明らかに西欧系の人だった。十年も前に帰化したのだという。出したお茶に手もつけもせず、「どこの国の方?」と訊いても「それは今日の話題に関係ない」と言って答えない。手元のカバンから映画のチラシを取り出し、眉をひそめて言った。「あなたは聖書を、きちんと読んでいませんね」
 要するに彼は、チラシのなかに「アブラクサス」という悪魔にも繋がる言葉と、「ハレルヤ」という神聖な神を讃える言葉が同居しているだけで許せないというのだった。
 むろん映画も見てはいないし、原作も読んではいない。ただ全能の神を冒涜する所行だから、「あなたに神さまの罰が下るだろう」と「警告」するために来たのだという。あまり礼を失した来訪だし、まもなくお引き取りいただいたのだが、彼は玄関でもう一度「これは重大な警告です」と繰り返した。そして映画に客が入れば入るほど、神罰は大きくなると言い残して去っていった。
 日本人だったら、間違いなく精神科の病気を疑うだろう。しかし彼の場合はそうでないかもしれない、と思ったことじたいが、時と共に恐ろしく思い返される。物語の主人公、淨念という僧侶を追い詰めるのも、あの男の「神罰」の論理ではないか……。
 誰にでも、おそらく人前に出せない自分、明確なキャラに収まりきれない渾沌が住んでいる。それを抑えつけ、そうして脅しながら生きていくのは辛すぎる。だから私は、いみじくも彼が見抜いたように、アブラクサスというカトリックが否定した神に淨念を帰依させた。異端とされても、渾沌を抱えて生きる覚悟を淨念は「ハレルヤ」と謳ったのではないか。今のところ神罰はないようだが、まだ客の入りが足りないのだろうか。それとも神罰は、加藤直輝監督かスネオヘアー氏のほうに下ったのだろうか。
 ともかく淨念が純粋に不器用に大まじめに謳う聖なる「ハレルヤ」を聞いてみていただきたい。
 
     
「PRESIDENT+PLUS」 2010年12月25日号