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三月十一日午後二時四十六分に起こった大地震は、その後の甚大な津波災害を伴い、また福島第一原子力発電所の危機によって、さながら地獄図のような様相を呈してきている。
私の住む福島県三春町も当該原発から約四十五キロ西にあり、十八日現在危機感は募る一方なのだが、なにぶん初期津波からの避難民や原発周囲からの避難民を合計千百七十人も受け容れており、特に町当局とすれば逃げるわけにもいかない。
副町長の深谷さんによれば、当初三春として受け容れられるのは六百人程度だと県に伝えたらしい。しかし実際には大型バスに乗った三千人が押し寄せ、結局二千人だけ受け容れ、あとのバスは避難できる場所を求めて夜の町に出て行った。その後千五百人に減り、現在の数になったのは、ここも原発から遠いわけではないからである。
三春町も震度5強から6弱の揺れだったから、被害も多い。お寺も山門横の塀が倒れ、六地蔵は一地蔵になり、本堂の位牌はほとんど倒れ、墓地にも凄まじい被害が出た。当然一般のお宅でも。壁が崩れたり屋根瓦や窓が落ちたり、多くの被害があったのである。
ところが今回の場合、浜通り(県沿岸部)は津波の被害が加わったため、多くの中通り(会津地方より東の内陸部)の町は、自らも被災地でありながら大勢の避難民をお世話することになった。ここがまず第一に、今回の災害の辛いところである。
めちゃめちゃになった家の中を片付けるまもなく、ボランティアの炊き出しに参加するのも限界がある。町は鍋釜と食材を用意し、十七日から自炊をお願いする方針に切り替えた。
避難所の人々は、家を失った人もあり、また放置してきた人もいるが、みな「もっと北の人たちを思えば、私らなんかマシなほうだ」、あるいは「この町の人たちには本当に感謝している」と言いつつ当初の物資不足にも耐えてきた。
救援物資はじつに多くの所から届きはじめ、ガソリンや灯油、オムツを除けば、カップ麵や水、下着や歯ブラシ、毛布、シーツなど、ほとんどの日用品は一旦は揃ってきた。本当にありがたいことだと思う。
むろん、今の時点でも、「もっと北の人たち」はまだまだ困っているし、岩手や宮城の被災者たちは、今なお寸断された交通網のその先で寒さや飢えと戦っている。三春にしても、避難生活がいつまで続くのか分からない現状では物資もこれで充分なわけではないのである。
ここまではしかしある種の天災だし、それなりの諦念で受け容れ受け容れ、東北人の逞しさ、無言の努力を期待して、多くの犠牲者の冥福を祈るという事柄だった。未曾有ではあるが天災なのだし、きっとなんとかするだろう、いや、なんとか復興するしかないと、両手を合わせながらテレビを視ていたのである。
ところが三月十三日あたりから事情は変わった。読売新聞はこの日、原子力安全・保安院の発表を受け、朝刊で「炉心溶融」という表現を使った。しかも福島第一原発六基の不具合が次々に明らかになり、十四日午前十一時一分、一号機に続いて三号機も水素爆発を起こし、原子炉の建屋が吹きとんだ。炉心の温度もどんどん上がっているというのである。
しかしほとんどの国民が、この時点ではまださほど深刻には受け止めていなかっただろうと思う。実際、テレビ報道からもあまり緊迫感は感じられなかった。炉内の蒸気を抜く弁がなんらかの理由で閉じてしまい、高圧になっているため、弁を開ければいい、などと言っていたのである。
驚いたことに、この時点で、原発でのプルサーマル使用に反対運動をしていた友人は、福島県を出ている。危険性について、人一倍詳しかったということだろうか。
じつは三号機にはMOX燃料がすでに原子炉で使われており、そのことは大熊町や富岡町など、当該地区の人々の多くは知っていた。しかもその両町の役場課長たちが、三春町には避難民と一緒に来ていたのである。
MOX燃料とは、使用済みプルトニウムを再処理し、二酸化プルトニウムと二酸化ウランを混ぜたものだが、主に高速増殖炉に使用するため、普通のウラン燃料に比べると格段に高出力で放射能も高い。特に中性子が異様に高いため、燃料の製造さえ、遠隔操作で行なうほど危険なものだ。
三号機では、核燃料棒五四八体中二四〇体(約百トン)がMOX燃料であり、それが昨年十月二十六日から原子炉のエネルギー源として稼働していた。そのことを、反対運動していた友人も知っており、大熊町や富岡町の課長も知っていたのである(ただし冷却中の燃料棒はMOX燃料ではないと思われる)。
三号機の水素爆発を知った両町の課長たちは、事前に県からもらっていた「ヨウ化カリウム丸」(いわゆる安定ヨウ素剤)という薬を飲もうと決意した。それを見た三春町の当局も、町民にも飲ませるべきだと合議の上決断して県庁に分与を願い出たのである。
この薬は、要するに発生した放射能中のヨウ素が甲状腺に入り込んで発がん」のリスクを引き起こすまえに、甲状腺を飽和状態にしてしまうという仕組みである。ヨウ素は甲状腺ホルモンを作るのに必須の物質であり、ふだんから甲状腺に蓄積されている。放射性ヨウ素が体内に入ってしまうとどうしても甲状腺に蓄積されるため、放射線を出しつづけて発がんリスクが増大するのである。しかし人によっては副作用もあるし、アレルギーを起こす人もいるとされる。本来は国や県の判断によって服用せよ、というのだが、その時点では国はもちろん県のほうでも判断材料となる放射能測定値さえ持っていなかった。県がいわゆるモニタリングポストによって放射能測定値を示すようになったのは三月十六日からである。
薬の効き目は二十四時間しかないため、最も放射能が高い時に飲まなくては意味がない。町長、副町長、議長はじめ、医師や全ての保健婦も一緒になって相談した。そして三春町は、二十キロ圏外では逸早く十四日に薬を約一万五千粒入手し、役場職員が徹夜で家庭ごとの分配作業を行ない、翌十五日には町内八カ所に取りに来てもらう形で四十歳未満の七千二百四十八人のうち凡そ九五%に手渡された。
その日の朝六時十四分、三つ目の二号機付近でも爆発音が上がった。それ以前、町では東の端に当たる沢石地区に風向きを見るための幟を立てていた。十五日の朝、風は少なくとも三春町には真東から吹いた。しかも福島第一原発から百キロ以上離れた茨城県東海村での観測データでさえ、朝八時には5.8マイクロシーベルト/時という高い値を示していた(ちなみに、原子力災害対策特別措置法に定められたギリギリの安全基準値が5マイクロシーベルト/時)。それらを確認した町当局は、薬の配布時に「すぐに飲んでください」と指示したのである。
十四日、十五日の放射能測定値は、県からは示されなかった。ようやく十六日になって、十五日の分まで示されたわけだが、それは確かに十五日が最も高くはなっていたものの、納得できる数値ではなかった。人々を不安に陥れないように、という配慮がなされたのかもしれないが、たまたま十七日になって、原発から北西三十キロ地点における同日午後二時の観測データが文科省によって示されてしまった。三号機爆発の三日後なのになんと170マイクロシーベルト/時である。
モニタリングポストの示す数字は、たとえば県内で最も高い福島市でも十五日で20マイクロシーベルト/時界隈。二十日すぎには8マイクロシーベルト/時まで下がってきているが、いったい本当はどうだったのだろう。この疑念は、少しデータを調べた人にはおそらく共通するものだろう。
その後、三月二十一日になって、いろんなことが分かってきた。読売新聞によれば、原子力保安院の西山英彦審議官が、十九日夜になって「十六日朝に二十キロ圏内からの避難者にヨウ素剤を投与するよう指示した」と説明したらしい。しかし十五日昼過ぎには二十キロ圏内からの避難は完了してうた。三春町の場合、すでに十四日朝には避難民約千五百人が確定していたのである。
県の地域医療課の馬場義文課長は、「今さら服用させても効果がないと判断し、実施を見送った」と読売新聞に答えたらしいが、実際にはすでにあちこちに分散して避難している人々に配るのは、現実的にも無理だったはずである。保安院は「予防的な措置として投与を決めたが、結果として対象者がいなかった」と釈明している。
つまり国や県の決定に従って飲むべき薬だが、それを待っていてはこの際は間に合わなかったのである。
その後、県は、三春町に分与した薬を一旦戻すようにと言ってきた。しかしすでに飲んでしまっているのだから戻せるはずもない。
うちには三十歳の副住職がいる。去年の四月に九州は福岡県から来てくれた。こんなことになり、九州に戻りたいのは山々だろうし、誘いも多いはずである。一旦どこかに避難することも勧めたのだが、女房共々「最後まで一緒にいます」と踏みとどまっている。
ちょうど十五日はお葬式があり、雨の降りだした昼過ぎに私たちは葬祭場に出かけた。葬儀の行き帰りに、少し雨に濡れたのである。
町で配ったヨウ化カリウム丸を彼も貰いに行き、飲むかどうか些か迷ったようだが結局飲んだ。私も飲むことを勧めた。若い人には放射能が、特に子孫を作る機能に大きく影響を与えるからである。
十九日にはWHOの緊急被曝医療協力研究センター長が長崎からお出でになり、「今のレベルならヨウ素剤の投与は不要だ」と言っているが、これも「十四日、十五日の、本当のレベル」次第だろう。
今のところ町に副作用を訴えた人はいない。町首脳部も、「後悔はしていない」と言い切っている。
今はただ、ひたすた原発事故の無事終息を念ずるばかりである。
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