寺に生まれたせいか、落款というものは子供の頃から見慣れていた。お札には幾つもの違った形のものが押してあるし、祖父は自分でもデザインし、彫ったりしていた。
 特に墨で書いた筆文字には、朱色の落款が押してあるかどうかで見栄えもずいぶん違うような気がした。小学校では芋版のようなハンコを作ったあとだと思うが、私は四年生か五年生のころ、祖父の真似をして「宗久」という文字を勝手にデザインし、穴のない竹で初めてハンコを作った。年賀状に押すだけでなく、通っていた書道塾でも使ったような気がする。
 お寺の居間には昔からハンコや朱肉専用の抽出があった。そこにはじつにいろんなハンコが入っており、見ているだけで楽しかったが、すべて父や祖父のものだから、勝手に押せるものは寺号や山号など限られていた。
 自分専用のハンコをもつようになったのは、道場から戻り、副住職になって数年経ったころではなかっただろうか。地元の印鑑屋さん、デパートの中国物産展にやってきた中国の職人のものなど、その数は次第に増えてゆき、やがて中国旅行の機会があったため、杭州にある篆刻を研究する学術団体「西泠印社」で作ってもらったものも所持するようになった。
 ハンコというのは不思議なもので、最後に朱肉でそれを押した途端、にわかに完成したという気分になれる。筆文字はもちろんだが、時にはパソコンで書いたエッセイや小説をプリントしたものにも、つい押したくなってしまうのである。
 銀行などで個人を証明するのに、サインじゃなくハンコを求める国は稀だろうと思う。私自身もそれを面倒に感じることがある。しかしとにかく「作品」と呼ぶような何かを制作した場合、そこには朱いハンコが不可欠であるように思う。なんというか、全く別な風が吹き込む、とでも言えばいいだろうか。落款の印影のなかには別次元の宇宙があって、その印影があることで作品がある種の一般性、永続性のようなものを持ったように、錯覚できるのだ。
 当然、私はサイン会にもいろんなハンコを入れた袋を持ち歩いていた。赤と金の袋はかなり重くなったが、時には色紙などを持ち込む人もいるため、サイン会のたびに冠帽印(書作品などの右上に押す印)まで持参していたのである。
 あるとき東京でのサイン会のあと、私はあろうことかタクシーの座席に、ハンコ袋と財布の入った紙袋を置き忘れてしまった。
 気づいたのは翌日になってからで、私は諦め半分で覚えていたタクシー会社に電話してみた。おそらく財布はなくなっているだろうが、まさかハンコを持っていく人はいるまい、というのが事前の予測だった。しかし結果は逆で、財布は出てきて落款の袋だけなくなっていた。
 私は唖然とした。茫然自失である。
 財布にはカードや免許証もあったけれど、それは再申請すればいいし、お金も諦めはつく。しかしハンコは、二度と作り直せないしそれぞれに思い出も多かったのである。
「玄侑宗久」とか「玄侑」、「宗久」、あるいは「福聚沙門」「沙門宗久」などのほかに、そこには「不可得」などの冠帽印も入っていた。
 持ち去った人は、それらの落款に財布以上の価値を見いだしたのだろうか。そんなこともなかろうかと思い、私は遺失物届けを出してしばらく待ってみた。しかしとうとう落款は出てこなかった。
 諦めて再び作ったハンコも次第に充実してきた。今になると、花泥棒と同じように、許すというより讃えるような気分が兆している。私のハンコだけ持ち去ったのだから、それはきっと熱烈なファンに違いないのだ、と。モノが落款だけに楽観してしまった。

 
     
「星座」花筏号no.57(かまくら春秋社)