森進一がむせぶように歌う『港町ブルース』は、哀愁ただよう恋と別れの歌だと思っていた。「背のびして見る海峡を/今日も汽笛が遠ざかる」函館を出港した船は、二番ではもう三陸の漁港から宮城県まで南下してくる。「流す涙で割る酒は/だました男の味がする」だまそうと、だますまいと、男も女も、年寄り子供も、みんなみんな津波に流されてしまった。
「港 宮古 釜石 気仙沼」
 どこの港でも、船はいったん内陸まで流され、そして怒濤というしかない奔流がそれを呑み込み、さらには無数の家々や木々までなぎ倒し、人々も呑み込んで流れ去っていった。あとには瓦礫の山。
 そこに『港町ブルース』が、遠くから聞こえてくる。
 もともと瓦礫だったのではない。年の離れた弟が遊んでいた三輪車も、お婆が飲んでいた養命酒も、お母が楽しみに作っていたホヤのバクライも、お父が凝っていた海釣り用の毛針も、みんなその持ち主ごと濁流に呑み込まれ、叫ぶひまもなく、ただただ怪物が唸るような音に溶け込んでいった。残ったものも奪い去られたものも、津波という怪物のからだに踏みつぶされて瓦礫になったのである。
 マイナス二度の避難所で同じ毛布にくるまれながら、お爺が言った。
「一緒に死んじめぇばよかった」
「爺ちゃん、なに言うの」
「なんにもなぐなっちまった」
「………」
「だぁれもいなぐなっちまった」
 鼻水と涙を一緒に流しながら、お爺はよれよれのハンカチでそれをぬぐう。「あたしがいるよ」そう言う代わりに、お姉は痩せぎすのお爺の首と肩を抱きしめた。
 ふいにお爺がお姉の膝に手を置いたまま言った。
「あめの、あのおどごは、なじょした?」
「爺ちゃん、……知ってたの?」
「……知ってたさ。あいづはいぐねぇぞ。だいたい仕事がいぐねぇ」
 近くの石油ストーブの薄赤い光を見つめ、お爺はそう言ってから急に済まなそうな眼になった。
「いぃくてもわりくても、……生きてんだが?」
「……わがんね」
 使うまいと思っていた方言がとうとう出てしまった。
「わがんねぇんだよ、爺ちゃん」
 ずっと通じない携帯電話をポケットの上から握りしめ、お姉はいつしかお爺の冷たく皺ばんだ首にしがみついていた。

 少し内陸に入った奥州市。昼時のレストランの一番奥のテーブルでは、黙って大盛りの焼き肉定食を頬張る息子を、両親と妹がまるで異星人を見るように見つめていた。
「ほんっとに帰るだか?」母が訊いても黙ってモヤシを噛み、「お兄ちゃん、辞めちゃいなよ」高校生の妹が言っても箸を休めない。
 去年東電に就職したばかりの息子はひたすら栄養を摂ろうとばかりおかわりした丼飯をかき込む。よくぞ合格したと、あの時は近所にも鼻高々の孝行息子だった。しかしこの三月半ばから、事情はまるっきり変わった。
 週に一度、逃げるように戻ってきてはシャワーを浴びるが早いかバタンと倒れ込むように部屋で眠る。目覚めると、銀色に見える眼を細めたまま階下に降りてきてなにも喋らない。大好きだった水沢牛のレストランで、とにかく人目を避けながら腹一杯食べさせて送り出すしかない。それが父には情けなく、悔しかった。
 会社を批判しない。仲間を裏切らない。みんなの利益を優先する。それはみな自分が息子に教えてきたことではないか。息子は立派に育ったのだ。だからこれまでの二回も、泣き言を言わず、黙って帰って行った。「無理はするなよ」父はそう言って、店の出口で息子の手を執った。息子は黙って頷いた。「あの娘とはどうなってるんだ?」気を利かしたつもりで笑いながら小声で訊くと、息子は父を睨みつけて言った。
「つきあえるわげ、ねぇべ。……たっぷり被曝してるって」
 そんなとき少しだけ笑うのも、父に学んだのか……。
 どこかの飲み屋から、森進一に似せた声が震えながら聞こえてくる。「出船 入船 別れ船/あなた乗せない帰り船/うしろ姿も他人のそら似」
 いっそ他人であればと思う。しかしややがに股なのは自分に似ている。乗り込んだ車から振る白い指の動きは若いときの女房そっくりだ。

 肺炎に罹ったお姉が死ぬまで三日しかかからなかった。混み合った病院に引き取りに行ってくれたのは、同じ避難所にいた学校の先生だった。中学のときお姉の担任だったと、くしゃくしゃに泣き崩れた髭面でその人は言った。お骨をお寺に預け、お爺はようやく復旧した電車にふらりと乗って、とにかく南下した。
 南相馬の派出所の若い警官は困り果てていた。「ダメだよお爺ちゃん、ここから南には行けないし、牛はもう死んでるよ」「大丈夫だ。放射能ひゃらなんにも感じね。牛が死んだら俺も死ぬ」「ダメだって」。
 お爺はテレビで置き去りにされた牛たちのことを知り、なにも考えず牛の世話がしたいと思った。子供の頃はいつも側に牛や馬がいた。死ぬつもりではなく、かろうじて生き甲斐を見つけたのだ。交番の机の上のラジオから『港町ブルース』が流れていた。「あなたの影をひきづりながら/港 宮古 釜石 気仙沼」
  
 
     
「kotoba」2011年夏号/コトバ4号