占いの世界では、たとえば生まれた日時の星座の位置や、姓名、血液型などで、ある種の「宿命」を背負うものと考えているようだ。「宿命」の「宿」は「とまる」と()み、いのちの全体性である「命」の流れまで(あらかじ)め決まっていると考える。それが「宿命感」である。
 なるほど世の中には、自分の力ではどうにもできないことが確かに多い。男か女か、長男か次男かなども、完全に受け身で与えられれることだし、何より我々は生まれる環境も親も選べない。「宿命」という考え方が生まれるのも無理はんまいのかもしれない。
 しかし同じ境遇に生まれ育ち、似たような人々の間に暮らしたとしても、人はそれぞれじつにさまざまな人生を生きる。この認識から、おそらく「運命」という言葉が生まれたのだろう。
 「運命」の「運」は「うごく」と訓み、これは天と人との(かか)わりが予定もなく変化し続けるという見方である。
 ただこの「運命」も、人がどの程度関わることができ、意図的に流れが変えられるのか、いや、せめてある程度の影響だけでも及ぼすことができるのか、などといった観点で、これまた考え方が分かれる。
 運命の全体には逆らいようがないとしても、やがて波のようなその変化に「乗る」こと(荘子(そうじ))や、その波の上に「立つ」こと(孟子(もうし))が勧められる。後者は「立命(りつめい)」で、日本では大学の名前にも使われた。
 それらに似た態度なのだが、日本の奈良時代には運命の流れに「為合(しあ)わせる」意味から、「しあわせ(為合)」という和語が生まれる。室町時代になるとこの「しあわせ」に「仕合」の文字が当てられ、相手も天ではなく人を想定するようになる。人が刀を持って向き合うことを「仕合」(今は「試合」)と表記したことからもわかるように、「しあわせ」とは相手の出方に対してどう対応するか、というかなり技術的な問題だった。うまく「仕合わせ」られれば「しあわせ」の語源であり、明治以後に用いられた「幸」や「幸福」の意味合いとはまったく違う。
 そう考えると、世間でよく聞く「運がいい」とか「悪い」という判別は、結果論でしかないことがわかるだろう。波そのものには善意も悪意もなく、要はその波に乗るなり立つなりできたかどうか、つまりうまく「仕合わせ」られたかどうかなのだから、これは本人の心構えや技術に()るところが極めて大きいはずである。

 

 さてそこで問題なのは、どうしたらうまく波に乗り、そこに立ち、不慮の波に仕合わせることができるか、ということだが、これは実際の波乗りと違って目に見えない波だから難しい。
 一つ言えるのは、人間の意識は極めて不自由で、一つしか掴めないということだ。思い込みが強い、という言い方もできる。
 流れの全体を把握できないのは勿論、意識というのは掴んだら放さず、それをすぐに名詞的に分別する。たとえば「運がいい」という証拠、あるいは「運が悪い」証拠、というように。
 そして意識は、たいていの場合、脳から何かを捜せという指令を受けており、それを求めてあちこち彷徨(さまよ)った挙げ句、たいていはそれを見つける。まるで優秀な猟犬のような、脳の部下なのである。
 たとえば「今日の自分は運が悪い」と思い込んだ場合、意識は必死になってその証拠を捜す。むろん逆に「今日はツイテル」と思った場合も、その証拠を捜し、それはきっとたいてい必ず見つかるのである。
 一つ目の証拠が見つかれば、二つ目三つ目はもっとラクに見つかるだろう。松茸捜しと同じである。そうしてあっという間に「ツイテル一日」や「ツイテイナイ一週間」ができ上がるという仕組みなのだ。
 ならばまず、「運が悪い」という証拠はけっして捜さない、という強靭な意志こそ、運の重要な下支えになると気づくだろう。
 本当は、運がいいも運が悪いもないのだが、どうしてもそのような判断をしてしまう脳への、これは対抗措置である。

 

 同じことを、ユングは「希望の「元型(げんけい)」と言った。一つの出来事の価値は単独ではわからず、三つ四つと(つな)がって初めて明確になるのだから、それまでは「希望」をもったまま判断を保留せよというのである。
 中国の故事成語「塞翁(さいおう)が馬」という話も聞いたことがあるだろう。これも「希望の元型」と同じで、吉凶を判断せずに受け流す強い(おきな)の物語だが、現実にはかなり大変なことだ。がんになっても、交通事故に遭っても、それだけでは不幸とは限らない……。そう思わなくてはならないのだ。
 しかし意識に捜させるものが明確であれば、それ以外を鷹揚(おうよう)に受け流すことも、いつしか上向きの運気に乗っている自分を発見することも、さほど難しくはないはずなのである。


 
      
     
「くらしラク~る♪」 2011年5月増刊号(PHP)