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三月十一日から四月の初旬まで、私はほとんど町外に出かけなかった。新幹線が止まり、高速道路も通じなかったという事情もあるが、なによりそれを使って出かける講演を全てキャンセルしてしまったのである。
ずっと以前から約束し、ポスターも出来ていただろうと思うと、本当に申し訳ないことをしたと思う。
しかし当時はそれどころではなかった。原発の状態は不安定だったし、その周辺市町村からの避難者たちが町にも溢れていた。
毎日のように役場に出かけ、原発の様子や水道、土壌、環境中の放射線量を気にしつづけ、避難も含めた対策について、あるいは檀家さんの被災状況についても、情報収集に明け暮れていた。むろん女房に言われ、その頃はマスクや帽子、ジャンパーをいつも着ていた。
ひょんなことから政府の復興構想会議のメンバーを命じられ、毎週一度以上は東京に出かけるようになった。四月十四日からである。当時は現場を離れる罪悪感のようなものが、常に私のなかにあったのを覚えている。
それとこれとは関係ないと思うのだが、どういうわけか、私は少し早めの電車に乗ると必ず東京駅までは行かず、上野で降りた。昔からこの街が好きではあったのだが、大震災以降は特にその気持ちが強まったように思う。
たしか四月十四日には、桜がほぼ散りかけ、新緑も芽吹きだしていた。その日が首相官邸での第一回の会議であった。
私は上野駅の不忍口から降りていつものように公園に通じる階段を上った。上り終えたところで一服し、その辺りに坐って本や新聞を読んだりしてから、昼食を摂る場所を探してまた歩くのである。
上野ではじつに様々な人々を見かける。こう言っては失礼かもしれないが、みなどこか、現代の日本社会が目指す理想の枠組みから避難してきた人々のように見える。理想の枠組みとは、つまり原発に象徴されるような、市場原理と効率優先、そしてシステマティックなあり方である。
しかし上野にはそうでない社会が垣間見える。人と人、いや人と猫でさえきっちり向き合い、その時その場での動きをシステムに関係なく考えている風情がある。一言でいえば、じつに居やすいのである。
あちこち歩き回った挙げ句、私は玉子丼や中華定食、カレーなど、じつにスタンダードな昼食を摂るのが常であった。そしてその後タクシーに飛び乗り、そそくさと首相官邸での会議に向かうのである。
五月のある日だったと思う。
私はいつものように、公園をぶらついてそれから昼食を摂る場所を探していた。
狭い露地を入ったところに、「カツオ丼」という張り紙があるではないか。
なにを隠そう、私はカツオが大好きなのである。
まだ誰もいない店内に坐り、私はその日発表するはずの原稿を読み返しながらカツオ丼を待った。待つあいだ、私の頭に去来したのは、三陸海岸の今年の漁のことである。
大津波にあらかたの船を持ち去られ、あるいは内陸に運ばれて使えなくなった船のせいで、三陸の漁師たちは今年のカツオ漁は諦めていた。せめてサンマ漁になんとか間に合えばと考えていたのである。
しかしまず三重県から宮城県に、三百艘もの船が届けられた。続いてあちこちから、岩手にも宮城にも中古ではあるが修理した船が届けられたのである。
漁師たちは俄かに活気づいた。私はその賑わいを想像しながら、出されたカツオ丼を頬張った。「女房を質に入れてでも」味わったとされる旬の味覚に舌鼓を打ったのは言うまでもない。
さてその後も会議は続き、私は何度か上野を訪れた。しかし残念ながら再びカツオ丼を食べる機会はなかなかやってこなかった。
六月二十五日、ひとまず総理に「復興への提言」を渡したあと、私はまた上野を訪れた。
その時はできれば不忍池の蓮も見たかったのだが、まだ咲いていなかった。残念だが、店に入って「銚子のカツオ」を前にすると、そんなこともすぐに忘れた。じつに旨かった。
今になると、「銚子のカツオ」と言われたのが水揚げ場所であったことに気づく。今年は、小名浜に揚がるカツオはゼロで、銚子、勝浦、気仙沼などが増えている。同じ漁場で獲れても、「福島産」では売れないのである。
いつになったら小名浜に揚がったカツオが食べられるのだろう。カツオ漁で全国五位の水揚げを誇った漁港が、今はさめざめと泣いている。
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