先日、NHKの番組で、いつか撮られた自分の処女作『百花金泥(ひやつかきんでい)』の原稿用紙が映った。懐かしくなって書庫などを探してみたのだがどうにも見つからない。探しながらあれこれ憶い出すこともあり、またついに見つからなかったせいか、急に懐かしさ以上の気分が押し寄せてきた。
 二十四、五歳のころ、私は寺田博さんという編集長に原稿を見せてもらっていた。当時『作品』という文芸誌を主宰されていた寺田さんは、編集部員すべてに新人の発掘も仕事として課していた。そこに入社したのが大学時代の友人で、彼が私の原稿を持ち込んだ、というより、ノルマを果たすべく手近にいた私の原稿を持って行ったのである。
 幸い、というべきか、寺田さんは『百花金泥』を気に入ってくださったらしく、お目にかかることになった。そしておっしゃったのは、載せるつもりではいるが、最終の第四章を書き直してほしい、ということだった。むろん、それでもありがたかった。
 悪戦苦闘してたぶん三回は書き直したと思う。べつにそんな苦労話をつらつら書くつもりはない。ただ私は、苦労して書き直したのだが、その結果自分がどういう終章にしたのだったか、なんとしても憶いだせないことに些か驚き呆れているのである。
 物語は、お寺を継ぐことを期待されていた長男が、何年も東京でぐずぐずアルバイトみたいな仕事を重ねた挙げ句、一風変わった女性を伴って帰郷した場面から始まる。寺の坂下の橋の上で、買ったばかりのタバコをふかし、男は幼少期を回想しつつ彼女と並んで坂道を上がっていく。
 女性は、田舎町に似合わぬ派手な容姿や服装で、新宿の飲み屋で働いていたときに客として知り会ったことになっていた。しかし一風変わったというのはそういうことではなく、彼女は神社仏閣が好きで、しかも金ぴかのものを磨くのが趣味なのである。
 酔って彼女の部屋に泊めてもらい、その薄闇のあちこちに光る金ぴかの調度品に囲まれた晩のことも回想で挿入される。
 奇妙な趣味をもつ派手な女性は、主人公の男への興味というよりも、その実家が寺であることに執着して従いてきたようなものだ。しかし彼女は神社仏閣そのものへの敬意からか、老いた両親に引き合わせてもじつに丁重で、スムーズに数日が過ぎるのである。
 ところが肝腎のその先が全く憶いだせない。数日のあいだ彼女はお寺のあらゆる金色のものを磨きつづけ、男もそれを手伝ったり父親である住職を手伝ったりするのだが、それからどうしたのだったか……。
 三度も書き直し苦しんで得た結末なのだし、忘れるはずもない、そう思って数日待ってみたのだが、一向に憶いだす気配がないのだ。
 私は仕方なく、今の自分ならどう書くだろうと、あらためて考えてみる。
 本質的な発心は男の中で起こっていないのだから、男が去り、女が残って寺を手伝うという結論もあり得る。それはけっこう過激だし印象的な結末ではないか……。しかしまったく記憶の糸が揺れないようだから、たぶんそうは書かなかったのだろう。
 それなら、女が磨くべきものをすべて磨き終え、迷いつづける男にかまわず去ってしまう、というのはどうだろう。しかしそれでは何も問題は解決されず、しかも目覚めていない男だけが残されるわけで、それはあまりに寂しすぎる。小説の初めと終わりで、それほど男に変化がなかったら小説にならないではないか。
 なんだかいっぱしの口を利いてしまったが、当時の作品が本当に小説になっていたのかと訝しむ気持ちが次第に芽生えてくる。しかし寺田さんはOKを出し、最終的に世に出なかったのは折しも掲載されるはずだった雑誌が廃刊になったせいなのだ。きっと『百花金泥』そのものはきちんと描かれていたに違いない。
 しかしそれなら尚のこと、最終章はどう描いたのか、ますます気になってきた。
 ふと、『百花金泥』というタイトルに込めた意味合いが今さらに憶いだされた。たしか彼女は墓地の文字にも金泥が塗られていることを発見し、林立する墓石まで磨きだし、そこから目に見えぬ世界、金泥に彩られたもう一つの世界に、無意識に男を導き、目覚めさせていくようななりゆきではなかったか……。
 そして「百花」にはあらゆる死者も生者も含まれる。「金泥」の奥底から輝きだす光とは、この世では否定されかねないあの世的な価値なのだ。理にも利にも合わない、この世では「無用」とされる人々やその行為、とでも言えばいいのだろうか。彼女の死んだ親の面影もたしか含まれていた。
 信仰の入り口も、その形態も、じつに無数にある。寺に生まれたばかりに要らぬ拘りに妨げられ、頷けないでいるスタンダードと思い込んだ在り方を、女の奇矯な、しかし深い「鰯の頭」のような信心が嗤うのだ。それこそ当時の私のテーマではなかったか……。しかしいったい、それをどのような筋立てのなかに表現したのだろう。
 ここまで書いてまた数日が過ぎた。こんなに時間のかかったエッセイがこれまであっただろうか。
 ふいに、あのときの書き直しの苦しみが、反復されているような気がした。私はたしかにあのとき、今のような袋小路に陥っていたのだと思う。実際この原稿は、もう三度書き直ししている……。
 トラウマ……。一瞬、そんな莫迦な言葉が浮かんだ。そして「処女作は永遠」という言葉まで、本来とは違う意味で迫ってきた。
 しばらくして私は頭に浮かんできたのは、「忘れる」という脳機能を促す、防衛本能のことだった。もしかすると、それは一寺の住職として暮らす私の現状にとって、あまりに不穏当で危険な内容だから、ほとんど無意識に忘れていったのではないか……。
 そういえば寺田さんは、出家して道場に行ったあとで偶々お目にかかったとき、僧依姿の私を視て「そうですか」と諦めたような声で言い、それから「それはそれで、結構なことじゃないですか」と妙に明るい声で、付け加えた、と私は感じた。
 それはそれ、これはこれ、という双方を双つながら生きようと決心した私が、もしも「それ」の防衛のために「これ」の要を忘れたのだとすれば、由々しきことである。
 こうなると、憶いだすことより、今の私なりの『百花金泥』を書くしかないか、、とも思ってしまう。数日後に案外あっさり憶いだし、拍子抜けするのかもしれないが、今は妙に力みながらそんなことを思い、またそれが昨年亡くなった寺田さんへの供養だとも思ったりするのである。

 
     
     
「yom yom」(19号) 2011年3月号