三月十一日の地震、津波、そして原発事故以後、しばらくは本が読めなかった。原発から西四十五キロの三春町に居つづけ、読んだものといえば、新聞と週刊誌、原発事故関係のデータやグラフくらいだろうか。とにかくひと月ほどはフィクションは勿論どんな本も読む気になれず、これまでに経験がないほどテレビを視た。そして言葉にできない津波のような映像に、押し流されていたのである。
 放射能や原発関係の味気ない書籍の合間に、ようやく開いたのは吉村昭氏の『三陸海岸大津波』(文春文庫)。明治と昭和の三陸大津波その他を描いたこの本によって、私はふいに目を覚ましたのかもしれない。貞観十一(八六九)年五月の大津波以来、じつは三陸海岸を襲った津波は数知れない。平安時代でさえ死者が千人を超したというのだから尋常ではないが、慶長十六(一六一一)年には伊達領内だけで五千名もの死者を出す津波が押し寄せている。
 要するに東北の沿岸地域にあっては、これは「時々は必ず起きる」ことだったのである。今頃目覚めたというのも恥ずかしいが、昭和三十五年のチリ地震津波も体験としては覚えていない私とすれば、致し方なかったとしか言いようがない。
 思えば地震や津波だけでなく、火事や大風、古くは(ひでり)や長雨、(いなご)の大発生による飢餓など、人間の思うに任せない事態は数多くあった。東北で最悪だった天明の大飢饉、あるいは同じ時代にフランス革命を引き起こしたとされるヨーロッパでの窮乏・餓死を想えば、失礼ながら今回の被害さえ小さく見えるかもしれない。
 ようやく天災の国に住む自覚をもった私が、それからまもなく旧知の編集者に勧められ、手に取ったのが『方丈記』であった。
 その時点で詳しい内容を覚えていたわけではない。むろん「これこそ無常観」という本であることも、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という冒頭の文章も、覚えてはいた。しかし二十年以上まえに読んだきりだし、特別に感激した記憶もなかった。それがどういうわけか、今回は本当に名文だと思ったし、文章がまるごと頭の奥底に滲みこんでいくのである。八百年もまえに書かれた言葉にこれほど没入できたのは、正直初めてかもしれない。
 鴨長明という人は、下鴨神社という名門神職の家に生まれ、幼い頃から和歌や管弦、とりわけ琵琶の演奏に秀でていた。和歌の才が後鳥羽上皇に認められ、復興された和歌所の役人の一人に任命されたのは四十六歳のときだった。
 長明はそれ以前、三十歳すぎに独り庵を結ぶが、その時までは愛する人もいて子供ももうけたようである。
 独り庵に住みつつ和歌所の役人として上皇に忠勤を励んだ長明を、上皇は父親と同じ下鴨神社系の河合神社の禰宜(ねぎ)にしようとする。長明は感激するが、それを快く思わなかった同族の一人が上皇に奏上する。これまで神社にさほど奉仕しなかった長明がそのような地位につくことを、神はお喜びにならない、というのである。
 思うに彼の無常観の底には、この体験がいつも伏流してはいなかっただろうか。五十歳そこそこで出家して山に籠もった長明は、その後は一切世間に出ようとせず、「世にしたがへば、身、くるし」とて山の庵で和歌を詠み、琵琶を弾き、仏道修行の傍らモノを書いて過ごす。つまりは僧侶というより、世捨て人になったのである。
『方丈記』を書いたのは数え六十歳で亡くなる四年前だが、自らの不遇をかこつわけでもなく、ひたすらテーマに沿った叙述だけが淡々としかも見事な構成で書き綴られていく。簡単に言えばテーマは、思うに任せぬこの世での生き方、ということだろうか。火事、辻風、遷都、飢饉、そして大地震などがつぶさに描写され、そして話題は折りにふれて「我が身と(すみか)」のことになる。
 冒頭で「世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」と述べられるが、つまり行く川の流れやそこに浮かんでは消える泡のように、人も栖も「はかなく」「あだなる(頼りにならない)」ものだというのだ。
 多くの災難と死が描かれるなか、やはり飢饉での死者はとりわけ痛ましい。長明の観察によれば、「その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ」という。ごく稀に手に入った食べ物も自分で食べてしまわず、愛しく思う子供や妻、あるいは夫を不憫に思って先にあげてしまうからだ。
 鎌倉時代からそんな末期(まつご)があったことが「あはれ」で仕方ないが、一方で私は、今も長引く避難生活を強いられた人々、あるいは県内各地で風評被害に苦しむ人々のことを思う。
 福島県内では今、自殺や自殺未遂が著しく増えている。飢えのせいではないものの、「その思ひまさりて深きもの」が先立って死のうとしていることは確かだ。
 三・一一以後、私が僧侶として見送った自殺者は二か月でなんと五人。こんな経験はこれまで一度もない。また郡山の病院で救急外来を担当しているお医者さんも、最近は自殺や未遂者が多すぎて対応しきれないほどだと嘆いていた。
 ニュースになっただけでも、県内ではキャベツの出荷停止を知った翌日の有機農業者の自殺、タバコの作付け停止の次の日の自殺。そして計画的避難区域に指定され、避難の足手まといになることを危惧した百二歳の老人まで自殺している。
『方丈記』がすぐに万人のための特効薬を用意してくれるわけではない。しかし災難に遭うたびに住まいを縮小していく長明の生き方が私にとっては啓示的であえあった。三十歳余りで作った大原の庵は前の家の十分の一、また最晩年に日野に結んだ庵は千分の一だという。「寄居(ヤドカリ)は小さき貝を好む」という理屈だが、なるほど彼が最後に作った庵は組み立て式・可動式のようだ。
 無理矢理避難させられている人々に、むろんそんな理屈は通用しないだろう。しかし少なくともこの柔弱で緩衝的な思考は、しばらく彼らの仮の宿りを支えるのではないか。
 もう「がんばれ福島、がんばれ東北」というスローガンはおやめいただきたいのである。初めはそれしかなかったのかもしれないが、今は他人事のようなその激励が我々を苦しめている。今必要なのは、むしろ鴨長明の絶望から発した無常への諦念ではいか。「ただ仮の庵のみ、のどけくしておそれなし」。
 ただしこの考え方も放射能にだけは通用しない。半減期三十年というセシウム一三七はまだしも、二万四千年もあるプルトニウム二三九など「無常」の原理からも逸脱している。
 何度も『方丈記』を読み返すうちに私は中に生じてきたのは、結局日本文化の根底を揺るがすものへの違和感、いやこれは、言いしれぬ憎しみであるような気がする。

 
     
     
「yom yom」(21号) 2011年7月号