今の日本では、目標をもち、計画的に事を進めることが、讃えられすぎているような気がする。
 政治の世界ではマニフェストと呼ばれ、また何事につけても「マニュアル」作りに精出す人々がいる。
 その場での直観的な対応に任せるようでは、上司としての管理責任が問われるのだろうか。要は、事の進展があらかじめ「想定」できるように、すべてが管理されつつあるのだと思う。
 何か事が起こると、「二度とこのようなことが起こらないように」と、必ず新たな規制や決まりができる。滅多に起きない例外的な出来事でもそうするため、普通の人々がどんどん生きにくくなるのだ。
 世の中がそのように進んできた原因の一つに、コンピューターがあると思う。
 おそらくもう二十年以上経つと思うが、「仕事をする」ことは「PCに向かう」のとすっかり同義になってしまった。忙しくともヒマでも、とにかくパソコンの前に坐っている。それが優秀な学生の、普通の就職状況なのである。
 パソコンの前に坐っていると、自然にパソコンの得意なことがしたくなってくる。それは情報の集約化、分析、想定などで、いずれも世の中の方向を基礎づけている。集約化するから盗まれる。盗みたくなる。また百歳以上が大勢いることになっていたり、そこにいるはずの子どもがいない、などの現象も近年は起きているが、それも結局、現場確認をしていないパソコン仕事の当然の帰結である。
 それでも彼らは現場に行こうとはせず、コンピューターソフトの不備と考える。これでは生きにくさも深まっていくばかりである。
 そのような世の中にあって、武道教育が復活することは非常に意義深いことだと思う。
 剣道、柔道、合気道、どれもそうだが、稽古の場で心がけるのはまず、基本的な動作が無意識にできるほどの反復練習である。
 そうした単純な運動が、ストレスを解消し、同時に体力をつけてくれることも間違いない。
 全身で反復練習をするのは、「無心」になるためでもある。要はああしよう、こうしよう、という意志ではなく、無意識に直観的に相手の動きに対応できるまで、我が身を使いこなしていくのである。
 現代人のからだで、そんなふうに使える部分がどれほどあるだろう。キーボードを打つ指先と、歩くことくらいか。しかしそれさえ「無心」ではなく、考え事と同時進行ではないか。からだは、必要以上に貶められ、使役されているのである。
 相手に向き合えば分かることだが、そこではあらゆる「想定」は役に立たない。ある種の思惑をもてば、必ず相手に見透かされてしまうだろう。計画も目標も、短期的にはまったく意味をなさない。ここにおいて人は、計画とか目標といえば聞こえもいいが、それは単に「予断」にすぎなかったことに気づくことになる。「無心」に動くからだだけが頼り、となれば、ようやくからだの復権である。
 どう動くか分からない相手に向き合うことは、ある意味で自然に向き合うことでもある。
 武道には、自然との上手なつきあい方の雛形も潜んでいるような気がする。
 武道に通底する考え方は禅の世界にあり、禅はまず自然が拡張できるものだと考えている。つまり、初めはどんなに不自然と思えることも、反復練習すれば習熟して無意識にできるようになる。無意識にできるようになったことは、新たな「自然」であり、その自然の拡張のことを「上達」と呼ぶのである。
 一方、相手も別な「自然」である。自然どうしとはいえ、相手を完全に理解することなどできない。つまり、自然相手なのだから常勝はありえない。それが相手への基本的な尊重につながるのだろう。
 指導者によっては、勝負にこだわらない、という人もいるのかもしれない。
 しかし勝負という単純で厳粛な基準があるからこそ、自然のもつ無限の可能性が引き出されるのではないか。
 武道において発揮される能力は、じつは動物たちのもつ能力でもある。最近はのんびりした生活のせいで、狩りの能力を失った犬猫も多いが、彼らだって本来、無心にからだを使いこなすことにおいてはヒトなど及びもつかない。
 ネコのバランス感覚や犬の嗅覚など、真似ようにも真似はできないが、せめて我々ヒトは、無心になることで動物としての能力が何か出てこないかと、期待しているのかもしれない。
 剣道の面を被って相手に向き合っていると、たしかに言葉にできない世界があることを、ひしひしと感じる。いや、言葉になる以前に、からだが動くということか。なぜ、そのように動いたのか、そんなことは自分でも説明がつかない。
 説明がつかないことを身近で体験する、という意味でも、武道は子供達にとって大きな体験になるだろう。「それをすると、どうなるんですか?」よく今の子供達はそんな質問をする。先生も全て説明できるはずだと思っているから、くどくどと「想定」した答えを返す。
 そんな質問には、「いいから黙ってやってみろ」と昔は答えたわけだが、今は許されないのだろうか。それならせめて、「やってみないと分からん」くらいは答えてほしい。
 計画も想定もマニフェストもかなぐり捨て、「やってみないと分からん」から、やってみるのが武道人の心意気ではないか。
「計画病」や「マニュアル症候群」に陥った現代人の陰鬱な閉塞状況は、武道教育によって必ずや活路を見出すはずである。いや、私はそう信じたい。

 
     
月刊「武道」2012年7月号