初春なのでめでたいタイトルにしてみた。「松に鶴」といえば、昔から結婚式の屏風などの定番。めでたい絵柄の代表格であった。
 なぜめでたいのか、というと、「松花伴鶴飛」という言葉が背景にある。「松花、鶴に伴って飛ぶ」と訓むのだが、たまたま松に止まった鶴の足に松の花が着き、一緒に飛んでいって見知らぬ土地に落ち、そこに根を張りはじめるのだ。まるで見知らぬ土地に嫁ぐ花嫁のようではないか。その地に深く根を張り、松のように長生きしてほしい、という祈りも込められる。そのご縁を運ぶのが鶴である。
 今、福島県では、地震や原発災害によって自宅を離れて暮らす人が、十六万人以上いる。県外避難した人も六万人を超える。
 それぞれに暮らしの状況は異なるはずだが、みな見知らぬ土地に暮らしながら、将来を見通せずにいることは間違いない。
 花嫁として嫁いだり、覚悟して遠くの都会に就職するなら、「松に鶴」の心がけで暮らせばいい。しかし今回、被災して故郷を離れた人々については、どう考えたらいいのだろう。
 海辺の家で生まれ育った人々は、朝、輝く海が見えないことが無性に寂しいと言う。目覚めが全く違っていて、どうにも自分のような気がしない、という人にも会った。
 結婚や就職のため、覚悟して離れた故郷は、たいていは親や親族が守っていてくれる。帰ろうと思えば、帰ることもできるのだ。
 しかし今回避難した人々の家は、荒れ続け、朽ち果てていこうとしている。一時帰宅では掃除すると張り切って戻った主婦たちも、あまりの荒れように為す術がなかったと聞く。庭の手入れや草引きをしてくると話していた人も、牛に踏まれ、豚に突かれた庭や家財道具に呆然とするばかりだった。
 それがはたして「ふるさと」だろうか。
 遠くにありて、どう思えばいいのだろう。
 彼らの心は引き裂かれている。「除染して戻る」と言い張る町長の言葉にも、半分しか頷けない。
 若者が戻らない町がはたして再生できるのか。学校や病院は再開できるのか。山林や田畑の除染は本当に可能なのか、遠くにいる人々ほど、懐疑的に「ふるさと」を思い起こす。
 鶴の足に着いた花からは、やがて松の種が落ち、どんなに乾いた地面にも根づいてしまう。種は本当に強い。それは白無垢の花嫁の強さでもある。おそらく苗木では根づかず、種なればこそどんな地面にも生えることができるのだ。全てを捨てて白無垢になったほうが強いということだろう。
 ならば人も種になればいい。つまり故郷への思いもその生い立ちの記憶も、一旦封じ込めてしまうのである。
 すでにそのようにして、故郷を遠く離れた人々が新たな生き方を模索しはじめている。
 仮設住宅や借り上げ住宅の近くに土地を借り、慣れない雪の土地で農業を始めた人もいる。なんとか職場を見つけ、働きはじめる人も結構出始めている。共通して口にするのは、「いつまでも避難民ではいられない」ということだ。
 事情はまったく違うけれど、やはり「松に鶴」なのだ。たまたま落ちた土地に根を生やし、活着する松がぼつぼつ出てきたのである。
 しかしそれは同時に「ふるさと」の空洞化でもある。
 その場の「いま」を想えず、未来も考えられない。たしかに「ふるさと」は過去に属し、それを凝縮した種だけが新たな「いま」に芽生え、未知の未来を生きるのだが、いったいこの「松に鶴」、めでたいのか、どうなのか……。そしてその結果がわかるのは、いつのことなのだろう。


 
     
「銀座百点」2012年3月号(NO.688)