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宮澤賢治の一生は、二つの大災害に挟まれた三十七年間、と見ることもできる。生まれる二ヵ月まえに起きたのが明治三陸大地震(津波)、そして亡くなる半年まえに起きたのが昭和三陸大地震(津波)である。
生まれる以前のことはともかく、亡くなった年(一九三三年=昭和八年)三月三日の被害は病身の賢治には堪えたはずである。夜中の二時半に震度5の地震があり、その約三十分後に襲った津波は大船渡で二十八メートルを超えた。宮古市の田老町(当時は田老村)では約九十八%の家屋が全壊したという。死者と行方不明者は合わせて三千名を超え、負傷者も一万二千名を超えた。岩手の自然や人々をこよなく愛した賢治にとって、これがどれほど衝撃的な知らせだったことか、想像するのも辛い。
じつはこの前年(昭和七年)三月、賢治は「児童文学」2号に『グスコーブドリの伝記』を発表している。賢治ファンにはおなじみだと思うが、簡単に言ってしまえばこれは過酷な自然に向き合う北の大地の人間たちの営みを、グスコーブドリ一家四人の命運に託して語った物語と言えるだろう。
飢饉のせいで体力もなくなった両親は病気になり、ある日父親はその窮状を打開しようと森に入る。戻らぬ父親を捜すため、今度は母親も出ていってしまう。家に残されたブドリと妹のネリは、しばらくは残されたそば粉を食べて過ごすが、やがてネリは「目の鋭い男」に連れ去られる。その後のブドリの孤独な遍歴と出逢いを詳しく書く余裕はないが、養蚕を想わせる「てぐす工場」は山の噴火にやられ、若い農民の「沼ばたけ」の試みも稲熱病のような病気で潰える。そうして偶然のように出逢うのが、クーボー大博士と火山局の技師ペンネンナームである。
現実に岩手の農民を悩ませているのは、稲熱病のほかに、旱魃や夏の冷害だった。とりわけ「やませ」と呼ばれる霧雨まじりの冷たい初夏の風は、稲穂の幼穂分化の時期に吹くと、稲をまったく稔らせない。
そこで賢治は、その対策として火山のコントロールという現実離れした方法を夢想したのだろう。物語のなかでブドリはクーボー大博士やペンネン技師を手伝い、火山を工作して降水量を調節することに成功する。また事前に小出しに噴出させるというやり方で、噴火そのものも制御するのである。
ブドリのいる火山局には、豊作に感謝する農民たちから感謝状や激励の手紙が次々届き、「ブドリははじめてほんたうに生きた甲斐があるやうに思」ったと描かれる。
しかしそれは、物語とはいえ、神の領域への挑戦ではなかっただろうか。賢治もきっと、そのことを自覚していた。
ブドリはその後、ある冷夏の年に、空気中の炭酸瓦斯の量を増やして気温を上げるため、カルボナード火山島を噴火させることを思いつく。クーボー大博士もそのアイディアじたいは肯定するものの、場所が島であるだけに最後にスイッチを押す人は死ぬしかない。ペンネン技師に相談すると、二十七歳のブドリよりも、六十三歳の自分がその役を果たすというのだが、結局ブドリが「世界ぜんたいの幸福」のために命を散らすのである。
おそらく最後の作品と思われる『産業組合青年会』のなかで、賢治は「祀られざるも神には神の身土がある」と書いた。冷害や旱魃を起こし、時には地震や津波など、完膚無きまでに人間を苦しめるのも神だとするなら、そんな神を祀る気にはなれない。しかしそれでも、やはり神は神だ、ということなのだろう。その神への生け贄のように、賢治はブドリを死なせたのである。
賢治はしかしブドリに次のように言わせる。老ペンネン技師に自分が行くことを説得する場面である。
「私のやうなものは、これから沢山できます。私よりもっともっと何でもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから」
ここには賢治らしい自己犠牲の精神、いや『法華経』の説く菩薩行の心意気が感じられる。
しかし私がここで申し上げたいのはそのことではなく、当時の賢治のささやかな願いについてだ。
「仕事をしたり笑ったり」、それさえできない病床で、賢治は昭和三陸大津波からの復興を見守ったはずである。物語のなかで造られた二百基の潮汐発電所も、大津波で壊滅していくイメージを無力感のなかで思い描いたに違いない。
「仕事をしたり笑ったり」、本当にそれだけでいい。賢治は今ごろ兜率天で新たな発電技術も考えながら、今回の被災地について、そう願っているのではないだろうか。
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