其の  
     
    三月から四月にかけて、いたく体調が悪かった。左手の小指と薬指が痺れだし、整体や鍼、整形外科のお医者さんにも診てもらったのだが、一向に改善しないのである。
 本堂でお経をあげるとき、木魚は右手で叩くが、左手でも大きな磬を打たなくてはならない。しかしその棓が持ち上がらない。それどころか、キーボードを叩くのも不自由なのである。
 そのうち、ある治療をきっかけに左腕は全く上がらなくなった。服が脱けず、したがって風呂にも入れず、二晩殆んど眠れなかった。

 そんなとき、「名人がいる」という紹介があり、県内だが遠い伊達市まで、副住職に運転してもらって出かけてみた。
 対面したS先生は、完全な盲目であった。副住職に手伝ってもらってようやく服を脱ぐと、S先生はよく響く声で自然に話しながら、両手の指先を裸の上半身に丹念に這わせていった。十三、四歳で視覚を失ったS先生にとって、おそらくその触覚は、常人の感覚からは想像もつかないほど敏感なのだろう。ひとしきり背中全体を触診しおえると、これまで誰も指摘しなかった問題点をズバリ言ってくださり、そして時間をかけて鍼を打ってくださったのである。

 その二日後だったと思う。たまたま辻井伸行さんのピアノコンサートに行く機会があった。辻井さんといえば、これまた全盲のピアニスト。二〇〇九年にアメリカ、テクサス州で開催された「第十三回バン・クライバーン国際ピアノコンクール」で日本人初の優勝を果たして以来、世界各地で絶賛を浴びつづけている。
 今回は被災地応援ツアーと銘打ち、かなりハードなスケジュールで岩手、宮城、福島から秋田まで演奏して廻る予定だが、万雷の拍手に応えてアンコール曲を四曲も演奏し、その合間に彼は言った。
 「被災地のために何ができるか、いろいろ考えましたが、結局僕にはこれしかできないんだと気づいたんです」
 それは謙虚でありながら、自信に満ちた言葉にも聞こえた。そして私は、すぐさまS先生の穏やかだが自信に溢れた風貌を憶い出したのである。
 自分の出す音に耳を澄ませながら、辻井さんはモーツァルトやベートーベンにその体を貸しているとさえ思えた。S先生の指先もまた、音と触覚と鍼で私の体を調律していったのだろう。
 目が見えないことで、彼らの日常にはどれほどの不自由があることだろう。しかし二人の「名人」は、おそらく何度も「これしかできない」と思いなしてその道を深めていったに違いない。いわば不自由ゆえに、ここまでの飛翔がありえたのだと思う。お察しのとおり、その翌日、私の腕の痛みはウソのように消えていたのである。

 
東京新聞 2012年5月5日/中日新聞 2012年5月19日【生活面】 
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