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禅は六道を、完全に心の旅路として捉える。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天は、いずれ誰もが経験する心の在り方だというのである。
「人間(じんかん)」はもともと、人と人との間だから、世間というような意味あいだった。それを human being そのものと読み替えたのは、日本人の発明である。六道における「人間」は、本来は人間関係の悩み苦しみ、そして喜びも含めた複雑な人間世界そのものだったわけだが、日本人はもともとその観点から人間を見ていたということだろう。日本人にとっては、だから「天」とは、平安で理想的な人間関係が実現している世界なのだろう。
昨年三月、未曾有の大震災が東日本を襲った。しかしすぐさま地獄絵図になったのかというと、そうではなかった。
禅の有名な逸話に、大鍋とうどんの話がある。もうもうと立ちのぼる湯気の中に大勢の人々がおり、長大な箸を持って大鍋を囲んでいる。我先に鍋の中のうどんをつつくのだが、周囲の人々をつつくだけでうどんは口に入らない。そのうちに喧嘩が始まり、箸は血まみれになって阿鼻叫喚……。これが地獄だというのである。
長い箸でつまんだうどんを自分の口には入れようとせず、鍋の向かい側の人に食べさせてあげる。向き合った全ての人がそうしてお互いに奉りあう、というのが極楽なのだが、ここで極楽とは、「天」と同意と捉えていいだろう。
そうした観点で見れば、東日本大震災直後の被災者たちは、困窮のなかでも「地獄」ではなく、「天」の人間関係を実現していたと言える。水や食べ物がまだ行き渡らぬなか、彼らは僅かな水や食料を分け合いながら、共に仲良く生き延びたのである。
亡くなってしまった人は、どうだろう。今回の震災では二万人ちかい死者・行方不明者が出たのだが、こうした大量死は、地獄ではないのだろうか。
おそらく日本人は、それを地獄とは捉えてこなかったはずである。『老子』には「天地に仁無し」とあるが、思いやりも怨みも、天地にはない。天災は、特定の人々を死に追いやる仕打ちでもないし、特定の人々を救う選別のための儀式でもない。日本人にとって天災とは、おそらく「天命」と思えば誰も怨まずに済むほどの、自然現象なのである。
なるほど日本人は、自然の脅威を宥めて祀ることから古代神道を生みだした。神となった自然は、恵みも与えるけれど、時々猛威もふるう。しかしその恵みも猛威も、我々の思惑を超えたところで発生すると考えたため、どんなに甚大な被害があっても、それを地獄とは捉えなかった。地獄も天も、人間の心が織りなすのである。
被災地の地獄は、ゆっくりじわじわと始まった。
政府は正しい情報を流しているのか……。東電は逃げずにきちんと原発を収束してくれるのか……。賠償はどんなふうになされるのか……。仮設住宅の狭さ、暑さは、なんとかならないのか……。奪われた仕事に復帰できる日はくるのか……。除染するというが、いつになったらその方法が確立されるのか……。線量計は渡されたけれど、いったいこの線量は安全なのか危険なのか……。そして故郷には、本当に帰れるのか……。
そうした疑心暗鬼の末に、人々は同じ家族であっても分断され、全国各県に六万人を超える人々が避難してしまった。
老夫婦だけが県内の仮設住宅に暮らし、子どもを連れた若夫婦は遠く県外に避難している。あるいは母親と子どもだけが県外に避難し、父親は仕事の都合で県内に残っていたりする。
そのような一家の分断のほかに、県内に残った人々と出て行った人々の間には、埋めがたい深い溝が横たわっている。片や今なお危険だと思うから戻らないのであり、片や住み続けるためにはそこが安全だと思う必要がある。そして困ったことに、それぞれの考え方を支える専門家らしい説明が、共に存在しているのである。
放射線量を測定することはできても、解釈は勝手にせよ、という今の現状は、地獄ではないか。
今後の仕事の見通しが立たず、賠償金だけで暮らす現状は、地獄ではないか。
福島県人とは結婚すべきでないと、根拠もなく妄信する人々に今後向き合うのは、地獄ではないか。
地獄について知りたいなら、今は福島県を訪ねるしかあるまい。しかし人々は、垣間見た程度ではなかなか地獄など見せはしない。
彼らは今の現状もまるで「天命」と受容するが如く、淡々と暮らしている。仮設住宅の庭に生えた草を毟り、花に水をやり、「いいお天気で」と微笑んでみせるのである。
大鍋のうどんの話と同じように、やはり地獄と極楽はいつだって紙一重。ちょっと見ただけでは区別がつきにくいのである。
ただ彼らが共通に思っているのは、おそらく原発によって「金輪際」同じような被災者が出てほしくない、ということだ。
「金輪際」、そう思うということは、彼らが「地獄の底」(=金輪際)を経験したということだが、思っている内容はけっして「地獄」ではない。今は少し底から浮き上がり、また複雑な「人間」界を彷徨っているのだろう。
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