人の運不運、幸不幸などというものは、つくづく分からないものだと、近頃思う。
 私は福島県に住んでいるため、今回の東日本大震災では地震の被害もあったし、放射能の問題でも呻吟した。それはむろん幸運ではなく不運だったのだろうし、けっして幸せな体験ではなかった。いや、放射能の問題はまだ過去にはならず、今もさまざまな不幸を県内外に作りつづけているように思える。
 しかし、人間万事塞翁が馬じゃないけれど、こうした体験もその後の時間のなかでどんなふうに変化するのか予測もつかない。おそらく人は、不幸な体験さえもいつしか咀嚼し、無常に変化させてしまう、優れて生産的な生き物なのだろう。
 なにより『方丈記』との出逢いが、私にとってはこの震災のお陰だった。二十代に読んだときはそれほど実感も湧かず、特に感動した覚えもなかったのだが、震災後に親しい編集者に勧められて読むと全く別物だった。読みながら自然に涙が溢れてきたことが、今でも忘れられない。
 また私自身、震災から二年の間に六編の短編を書き上げ、『光の山』(新潮社)として刊行することができた。むろん『方丈記』には比すべくもないが、それでも私にすれな震災ゆえの奇跡的な達成だったように思える。悲しくとも嬉しくとも、たぶんそれをどんな体験にするかは、私の自由なのだ。

 鴨長明という人は、じつに集中的に不幸な体験をした人である。二十三歳で「安元の大火」、二十六歳で「治承の辻風」、同じ年に「福原遷都」、二十七歳で「養和の飢饉」、三十一歳で「元暦の大地震」というのだから立て続けである。しかもこれらは全て、ごく近い京阪地区での出来事なのだから凄い。
 これほど災難に遭いつづければ、たいがい価値観も変わるだろうと思う。まして人生行路も。けっして順調ではなかった。由緒ある神社の神官の息子に生まれたものの、親族の妨害にあって神官への道は閉ざされる。やむなく和歌や管弦の道に励み、三十四歳のとき『千載和歌集』に一首が採用になるのだが、この和歌管弦の道こそが、その後の長明のプライドと楽しみの糧になっていくのである。
 遁世の理由は、たいてい「世の無常を感じて」というのが多いが、鴨長明とて例外ではなかっただろう。親族を含めた人間関係への失望、そして通常の立身が叶わなくなった失意が大きかったと思える。
 災害も多く、望みも持てない世の中に生きるにはどうしたらいいのか……。結論は意外にあっさり導かれたような気がする。
 最近は「免震」構造が地震への対応策として注目されているが、あらゆる災害に有効なのはいわば心の「免震」、あるいは免震的な生き方である。壊されてもあまりショックを受けないような生活環境と心構えを、予め作ってしまうのである。それが五十歳からの、大原での暮らしぶりであったに違いない。
 モデルにしたのは『維摩経』の主人公、維摩(ヴィマラキ―ルティ)が住んだとされる方丈である。そこは一丈四方の非常に狭い空間であるにもかかわらず、心に執着のない維摩が住むと無限の広さをもつようになる。
 鴨長明に執着がないとはけっして言えないが、ともかくコンパクトで移動可能な住まいに長明は住む。これなら壊れてもさほどショックもなく、移動できるから土地への執着も発生しない。だからこれこそショック予防型の万全な暮らしだと、彼は思っていたに違いない。
 実際、五十四歳の頃には大原から日野へ、洛北から洛南のほうに転居している。庵もさらに小さくなり、明らかに彼は維摩の方丈を強く意識するようになったはずである。
「事を知り、世を知れれば、願はず、わしらず、ただしづかなるを望みとし、憂へなきを楽しみとす」
 じつにもう静寂な、小欲知足な生活を送っていたかに思えるのである。
 しかしよくよく読んでいくと、どうも長明さんは少々強がっている。どうやら彼のあまりの生活の変化に、友達は呆れて近づかなくなり、召使いも辞めてしまったのだろう。長明さんはひとしきり友人論、召使い論をぶち上げる。
 友人たるもの、「なさけあると、すなほなる」友こそ愛すべきなのに、金持ちや愛想のいい相手とばかり親しくなりたがる。そんあ世の中ならば、人間より楽器や花鳥風月を友にしたほうがマシじゃないか。また召使いだって、給料が高くて保険まで揃えてくれる主人ばかりを望み、優しく労る主人の下で不安なく安らかに暮らせることを望みはしないのだ。ああ、あいつらは本当になにも分かっちゃいない……。
 私には、悲痛な叫びのようにも読めるのだが、そのおかげで長明の孤独な暮らしや自給自足的な生き方にもどんどん磨きがかかる。
「もし、なすべき事あれば、すなはちおのが身をつかふ」
 勿体ぶってそう言うが、我々には当たり前のことである。しかし平安貴族的な生活に慣れていた長明にすれば、自分の足で歩くことさえあまりなかったかに見える。「もし、ありくべき事あれば、みづからあゆむ、苦しといへども、馬・鞍・牛・車と、心をなやますにはしかず」
 きっとこれも、以前は召使いがしていたことだから、自分では歩くしかできないのだろう。だいいち牛に牛車、馬や蔵を揃えるのにもそれなりにお金がかかる。
 そこで近所の童を伴に山歩きまでするようになり、彼はきっと本物の自然の魅力にも気づいていくのだ。
 どうやらこの本には。自然の脅威は勿論だが、その美しさや恵みも余すことなく描かれている。
 また「無常」なる人と栖とがメインテーマではあるものの、自然の見せる無常なる姿の美しさも充分に描写されている。
 
 一箇所だけ「あはれ」と表現された部分に私の目は惹かれた。
「いとあはれなる事も侍りき」
 そう言って長明は、忘れがたい光景を綴るのである。
 それは飢餓の際の描写なのだが、深く愛する妻や夫をもつ者は、その思いが深いほうが必ず先に死んでいった。長明はそう分析する。それはようやく手に入れた食べ物でも、自分は二の次にして相手に食べさせようとするからだろう。親子なら、当然のように親のほうから死んだ。また母親が死んだことも知らず、いとけない赤ん坊が乳を吸ったまま横たわっていたこともあったというのである。
 おそらく、そうした光景を実際に長明は見てしまったのだろう。そして彼は、その光景が忘れられず、また忘れたくないのである。
「あはれ」という言葉は、どうにも訳しにくい。感情の方向は、感動であったり驚きであったり悲しみであったりもする。しかしどんな感情であれ、それが忘れがたく深く強く心に染み入ってきている状況を表すのだと、私は思う。
 つまり、「無常」という変化しつづける状況からすれば、むしろそれは逆行する心の動きなのだ。 
 忘れたいことも多くあり、実際忘れてもいくだろう。しかし一方で、忘れてはいけないし、忘れたくないことも必ずある。そうした心の抗拮を、私はこの描写に感じたのである。

 東日本大震災においても、それは感じた。
 震災直後の陛下のお言葉にもあったように、被災地の人々はじつに雄々しかった。なけなしのおにぎりや水を上手に分け合い、まるで『華厳経』の「自未得度先度他」のように、自らの苦しみを棚に上げて人を救済する姿も多く見られた。私もこれは忘れたくないし「あはれ」だと思う。
 しかし時間が経ち、行政や組織への不満が出てくるようになると、あまり目にしたくもない、語りたくもないような事態も出現してくる。ことに原発事故を巡る補償という、財物やお金の問題になってくると、全く底が見えない。
『方丈記』の時代には、むろんそのような補償や賠償などなかったわけだが、それはむしろ全てが「天災」と割り切れたということで、かえってスッキリしている。「人災」の部分が加わり、「責任」という厄介な問題が発生したから、事態はややこしいのである。
 地震が当時は「なゐ」と表され、『日本書記』には「那為」と表記されるが、これも「那(あの方)が為(さる)こと」の意味ではないだろうか。「那(あの方)」とはむろん「天」で、それなら諦めるしかない。
 すべて天のしわざと思えない現代は、むしろ不幸の度合いが増しているのかもしれない。
 なにより土地が、神さまのものではなく、人間個々に属することを認めるようになった。いったい地上は何メートルまで自分のものなのか、地下は何メートル下まで所有しているのか分からないままに、不動産として売買されている。中世に芽生えた「入会い地」の思想も廃れ、共同所有地さえ無数の人々の連名登記になってしまったのである。
 方丈記型の可動式の庵を作ったところで、おそらく今は自分で土地を買うか借りるしかないと、設置さえできないはずである。
 無所有に近い隠者の生活は、現代では真似ることさえ難しい状態なのである。

 鴨長明が自信をもって勧めるコンパクト・ライフではあるが、それはそのまま現代に繋げられるものではなかった。ならば私は、この本の何に感動したのか。どうして涙が出てきたのだろう。
 それはたぶん、『方丈記』のラスト近くに現れた作者の「ゆらぎ」のせいである。
 鴨長明は、つらつら世の無常を綴り、自らの選んだコンパクト・ライフを詳述したうえで、以下のように言い切る。
「夫、三界はただ心一つなり。心もし安からずは、象馬・七珍もよしなく、宮殿・楼閣も望みなし。今、さびしきすまひ、一間の庵、みずからこれを愛す」
 誰が何と言おうと、自分はこの庵暮らしを愛すると言い、どうせ誰にも理解してもらえないだろうと、「鳥にあらざれば、その心を知らず」などと『荘子』まで引用して狐高を謳うのである。
 しかし、はて、こんな強い主張をしてしまったけれど……、ふいに長明の心に仏教徒としての反省が兆す。
「仏の教へ給うおもむきは、事にふれて執心なかれとなり、今、草庵を愛するも、閑寂に着するも、障りなるべし」
 そう。仏教は、世が無常であればこそ、同じ事態は二度と来ないと考えている。過去の経験から対策を練り、今後の指針を導くことは無駄ではないが、それがマニュアルのように絶対化してはいけないという教えなのである。自分のもった信念さえも、執着の別名であることに、長明は気づいたのだろう。
 執着を離れればこそ、維摩の一丈四方の庵は無限の広がりをもった。ふと気がつくと、自分の庵のいかに狭いことか……。
『方丈記』が成立するより百年以上まえの十一世紀、中国の白雲守端禅師はすでに「風流」という言葉を使っている。
 これは本来「ゆらぎ」という意味で、目の前の現実に合わせてゆらぎながら重心を取り直すことである。
 ある程度信念をもつことは、むろん必要なのだろうが、状況を見なくなるとそれも単なる執着に堕する。まるでマニュフェストを述べるように、自分の獲得した理想の暮らしについて述べ立てていた自分が、急に恥ずかしくなったのだろう。長明は深く反省し、「汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり」とまで自分を責める。
 そうして長明は、深夜の庵のなかで静かに深く思考し、今後も「ゆらぎ」つつ「自然」に任せるしかないのだと気づく。面倒くさそうに「南無阿弥陀仏」と二、三回称えた、というのだが、何十回も称えたらそれも執着になってしまう。一度も称えないではこの気づきを届ける相手もいない。……そういうことではないだろうか。

 今回、震災から二年を経て読み直してみると、やはりこの長明さんの態度こそ理想ではないかと思える。
 現場を見て、状況の変化を見ながら、間違っていたと思えば計画も変えていいのだ。ゆらぎながら、新たな重心を常に捜し、そのときに一番いいやり方を、模索すべきではないか。
 果たしてこのラストにおける長明さんの悔悟が、著述として計画的になされたのかどうか、それは私にも判らない。しかし著者が最終的にこの形で残した以上、それは著者の明確な主張として読むべきだろう。
 あなたが自信をもちすぎていることじたいを反省せよ。それこそが震災後の最大の心得だと、長明さんは言いたいのではないだろうか。
 それは同時に風流の勧め、果てしなきゆらぎへの誘いでもある。


 
 
『方丈記 鴨長明』小林一彦著(NHK出版)