かつて、木を伐るのは仏教ではないと、老僧が言うのを聞いたことがある。むろん不殺生戒があっての話だが、老僧はいわゆる「開発」に対する仏教の基本的立場も示したかったのだと思う。
 もともと寺には寺号のほかに山号がある。これなども、「自然」と仏教の親和性を示している。都に近づくことを極度に戒めた祖師方もいるが、多かれ少なかれ各宗派とも「青山緑水」をいとおしんできたはずである。
「自然」はしかし時に猛威を振るう。東日本大震災の爪痕は、今も東北各地に深く広く残されている。
 仏教者としての我々は、これによって再び「自然」とどうつきあうのか、迫られていると言えるだろう。
 いわゆる高度成長時代、境内の木を伐ったり、地面を舗装したり、あるいは本堂を鉄筋コンクリートで建て替えたお寺もあったはずである。国中がそんなふうに変わるなか、独り旧態を保つのは易しいことではないし、なにも木造に戻せと申し上げたいわけではない。
 しかし、祖師たちの思いを踏まえ、我々はもう一度仏教者として生きる方向性を確認すべきではないだろうか。
 津波被災地では、仏教者たちが中心になって木を植える運動が始まりつつある。
 一つは慰霊のための櫻植樹、そしてもう一つは防潮効果を期待して照葉樹の苗木植樹である。
 気仙沼の地福寺さんや仙台の輪王寺さんなどでは、お寺が中心になって人が集まり、タブや椿、榊などの照葉樹の苗木を植えて数年後の防潮林を目指している。
 しかし行政はあくまでハード重視、コンクリートの防潮堤を造りたいため、今後どう進むのかは予断を許さない状況である。
 平成二十四年十二月、日本生態学会、植生学会、日本水産学会は被災三県の知事に対し、連名で被災地の防潮堤建設についての提言を出した。簡単に言えば、「自然環境への配慮」をお願いしたわけだが、これは仏教者にとっても大きな問題ではないだろうか。
 被災するまえに重く受けとめ、じっくり考え、各御自院の環境を見直してみていただきたい。

 
 
「佛教タイムス」2013年1月1日号(仏教タイムス社)