噂というのは、たいてい不正確なものである。本人から聞くのではなく、間に距離や人間、場合によっては報道なども介在したりするのだから当然のことだろう。
 だいたい本人から聞いた話でも、相手はすべてを理解するわけではない。極端な言い方をすれば、自分が聞きたい部分を聞くのだし、不都合な部分を切り捨てることも少なくない。
 仏教では、この「自分本位」は感覚にまで及んでいると考える。苦の連鎖を示す「十二因縁」の二番目の「行」(サンスカーラ)がそれで、どうしようもなく自分本位に見聞きしてしまう心の傾向を指す。「好き」と思えばそれを裏付ける情報を無意識に捜し、「嫌い」と感じれば誰でも何とかしてそれを合理化するのである。
 だから仏教教団は、基本的にはメモを禁じた。聞き取りメモじたい、明らかに話の勝手な「部分」の切り取りだからである。メモはせず、個人向けに師匠が語ったことを、丸暗記する習慣だったのである。
 ところで放射能などについて、あらゆる情報を集め、それを完全に覚え込むことなどできるだろうか。特に自分本位という意識はなくとも、人は関係の薄い事柄を次第に忘れていき、特に細かいことはわからなくなって大雑把にまとめてしまうものだ。新たな情報は常に出つづけているのだからそれも当然のことかもしれない。
 たとえば二○一二年、福島県では旧町村単位でいえば十四箇所、米の基準値を超えて放射性セシウムが検出された地区がある。合併後の市町村だと九箇所になるが、地元の人間にはその地区名だって忘れられないものだ。
 私も近くの地域でのことなら、細かい事情もよく聞き知っている。要するにその家では、一昨年は作付けをせず、草も生え放題にしてあったのだが、何もしないでは父に申し訳ないと思った息子が、耕しもせずばらまきで田圃に米を蒔いたのである。父親が若い頃、苦労して買った土地だったらしいが、わずか三俵足らずの収穫を、息子は律儀にも測定に持参した。それまで全袋測定の義務はなかったのに、それによって町じゅうが義務づけられ、てんやわんやの大騒ぎ……。しかし他の耕作者の米がほとんどND(不検出)であったことを地元の人間は知っているから、大騒ぎしたのは米そのものについてではない。風評被害が拡大することに怯え、怖れ、おののいたのである。
 近くのことだからそこまでの詳しい事情を知っているが、私とて、他の全地区について知っているわけじゃない。多くの福島県民も、全ての地区名を覚えているわけではないはずである。だから記憶は当然のことに市町村単位になってしまう。
 まして県外の人にしてみれば、行ったこともない市町村名は記憶することさえ難しいだろう。場合によっては、報道そのものが大雑把になることだってあり得る。そうこうするうちに、人々は「福島で十四箇所が」と言い、やがて「今年も福島は」ということになり、どんどん大括りになって風評被害は拡大していくのである。
 しかしこうした現象は、どう考えても自然なことである。県民でさえ忘れてしまう地区名を、遠くの人が覚えているはずもない。
 たとえば別な県で同じような事故が起こった場合、わざわざその県のものを選んで買う人はよほどの篤志家ではないか。現在の福島県がそうした篤志家に支えられていることは確かだ。
 しかし一般消費者はそうであったとしても、全国の農業者にだけはわかっていただきたいのである。検査した袋数にすれば、基準値を超えた米は全体の○・○○五%にすぎない。福島県の米や野菜は、確実に安全を確認できたもののみを出荷している。手間暇を惜しまず、土日もなく測定器で測ってきたのである。
 人はさまざまな噂のなかでしたたかに生きていく。この世に風がなくならないように、風評被害もきっとなくなりはしないだろう。しかしそれでも自信と誇りを失わず、農業を捨てず、前を向いて生きてゆけるのは、全国の農業者だけは信じてくれていると確信できるからだ。
 どうか福島県の農業を温かく見守り、あらためてその努力を信じていただきたい。
 君子危うきに近寄らず、と諺は言う。しかしそれでは風評被害も広がるばかりだ。諺は同時に、虎穴に入らずんば虎児を得ず、とも言う。しかし果たしてそこは本当に虎穴なのだろうか。
 いま私たちが心から望むことは、虎児かどうか入って確かめ、なんだ猫かと教えてくれる君子である。一人でも多くの農業者たちが、虎穴に入る君子であってほしいと切に願う。

 
     
「家の光」2013年3月号