エンガ見た   
   この言葉の詳しい通用域についてはよくわからない。私の住む三春町では使うし、隣町でも聞いたことはあるのだが、果たして福島県中通り全体なのか、それとも県中地区に限るのか、はたまた福島県外でも使うのか、その辺が定かじゃないのである。
 通用域はともかく、意味は「ひどいめに遭った」ということだ。
 この言葉を聞くたびに私は亡き祖母を憶いだす。血圧の高かった祖母は、転んだり躓いたり、あるいは墓地のほうでたとえば笹の葉で肌を切ったような場合でも、息を荒げながらやってきて「エンガ見た」と言って笑った。子供の頃はさほど感じなかったのだが、これは考えてみればずいぶん奇妙な考え方である。
 「エンガ」というのはお察しのように「因果」が訛ったもの。だから今しがた受けた酷い事態にも、なにかそのように結果するだけの原因があったはずだと、直観的に受け止めているのだろう。
 しかもそれによって因果を見た、ということは、原因は自分にあるのだと、どこかで潔く受け容れているのである。
 仏教では、善行の結果は必ずしも自分に降りてくるとは考えない。誰のところに、いつ結果するのかは一切わからないし、自分がその結果を目にすることも普通はありえないと考える。それでも善行をすれば必ず「功徳池」という集積所のような場所にストックされ、それはいずれ誰かに配分される。たまたま自分の善行の結果が自分に降りることを例外的に「功徳」と呼び、それ以外の誰がいつ行なった善行の結果かわからない善果を「ご利益」と呼ぶのである。
 要は善行の結果はそのように巡るとしても、悪行の結果はどうか。たぶん天に吐いた唾のように、まっすぐ自分に戻ると考えるのが仏教徒、いや、「エンガ見た」と言う人々ではないか。
 祖母の場合、いやご近所の人々でもそうだと思うが、鎌で指を切ってしまっても、熱湯でやけどをしても、ただ痛そうな顔で「エンガ見た」と呟き、それ以上は騒がない。自業自得といえばいかにも尤もそうだが、例えば信号無視で突っ込んできた車に轢かれたとしても、彼らは同じように呟くだろう。
 要するに、彼らが見つめる「因果」とは、その場の結果を招いた直接の原因という話ではなく、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の、遙かなる因果律なのだ。自分の過去の無数の振る舞いのなかに、今回の「酷い目」を招き寄せるだけの悪事があったはずだと、無意識に承認しているのである。それによって彼らは、たとえば暴走運転の若者にも他責的な目を向けなくて済む。他人を責めることが如何に苦しいことか、たぶん彼らは経験的に知っているのだろう。
 おそらく世の中に、自分は悪いことなど一度もしていない、と言い切れる人はいない。いるとすればそれこそ相当の悪党だ。ならば誰しも、この「エンガ見た」という表現を使っていいはずだが、標準語に直した「因果を見た」という言葉もまず聞いたことがない。
 もう三年ちかく経ってしまったが、東日本大震災における東北人の粛々とした行動の背後に、私はこの「エンガ見た」という諦念のようなものを感じるのだが、これは東北、あるいは福島県特有の心根なのだろうか。少なくとも大部分の福島県民は、まるで天命を受け止めるように原発災害にもただ「エンガ見た」と嘆きながら、淡々と暮らしていたように思える。
 むろんその後は「エンガ見た」だけでは済まなくなった。請求しなくては支払われない賠償、訴訟……。それは「エンガ見た」ことに違いはないが、すでに天命でも諦念でもない。要するに因果の扱う時間の幅が、極端に狭まってしまったのである。


 
 
     
「星座 」2014NO.68春霜号(かまくら春秋社)